表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】歪みの旋律~わたしが愛を知るまでのレッスン~  作者: 阿住しおみ/忌み子の姫は〜発売中
第五章:神妙なる旋律

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/47

5-4.Trübe Wolken~暗い雲~

 ……それから、どれだけ貞樹(さだき)は溜息を吐き出したのだろう。自分でも数え切れない。


 理乃(りの)のバイオリン演奏は偏っていた。確かに技巧は正確だ。弾き方の技――デタシェ、スラー、ボーインなどはある程度上手くできている。しかし、哀愁だけが耳にこびりつく感情の乗せ方はこの曲にふさわしくない。


 試しに他の楽曲も弾かせてみた。全部、だめだ。全く心に響いてこない。どこまでもフラットな、悲しみだけがべたつくような楽曲に変わってしまっている。


 失望にも近い何かが貞樹(さだき)の胸に去来し、ピアノを弾く手を止めた。


「そのくらいにして、さだ。瀬良(せら)さんも疲れるだろうから」

「ええ。もう結構です」


 冷ややかな声音が口から飛び出る。十分程度は弾きっぱなしだった。理乃(りの)に視線をやれば、真っ青な、疲労に満ちた顔を隠そうともしていない。葉留(はる)へバイオリンを渡す手も、どこか緩慢だ。


(過去の私は何を思って彼女へバイオリンを教えていたのか……)


 自嘲で貞樹(さだき)は唇を歪めた。これなら先程の女生徒――美智江(みちえ)の方が表現の乗せ方は巧みだ。クロイツェルを理乃(りの)と弾く意味など、今の演奏で見出すことはできない。


瀬良(せら)さん、仕事帰りで疲れてるでしょ? お茶入れてくるから待ってて」

「……ありがとうございます、池井戸(いけいど)先生」

「私にもお願いします、葉留(はる)


 言うと、なぜか葉留(はる)に睨まれた。疲弊した様子で椅子へ座る理乃(りの)を置き去りに、貞樹(さだき)葉留(はる)のあとを追う。


「何を怒っているんです」


 葉留(はる)は何も言わず、バイオリンを別室に片付けた。


「眉がつり上がっていますよ。彼女にバイオリンを弾かせたことが、そんなに不服ですか?」


 二人で給湯室に入る。葉留(はる)は紅茶を入れる準備をしながら、不機嫌な溜息をついた。


瀬良(せら)さんはね、自分の音色を探そうとしてた。クロイツェルも一所懸命に練習してた。さだと一緒に。そんな今までの瀬良(せら)さんを、さだは壊そうとしてる」

「彼女とクロイツェルを弾く意味を知りたかったんですよ。あの程度の技量で、難易度の高いクロイツェルを弾けるとあなたまで思ってるんですか」

「天才様には秀才の気持ち、わかんないよ」


 嘲るように言われて、さすがに貞樹(さだき)もむっとした。


「天才だとか秀才だとか、そんな議論をしているのではありません。自主公演を行うなら、私はやはり完璧を目指したい」

「そこが天狗だって言ってんの。覚えてないこと言うのもあれだけど、さだは教室を開くときも公演を開くって決めたときも、聴く人、弾く人が楽しいものにしたい、って言ってたんだよ」


 葉留(はる)の言葉に思わず目を見張る。完璧、完全、調和。昔からそれらを理念として音楽に向き合ってきたはずだ。そんな信念を崩すような出来事が何か、空白の記憶の中にあるのだろうか。


「……忘れるって悲しいね。本当に大事なものまで抜け落ちちゃうんだもん」


 葉留(はる)はささやく。悲嘆を込めて。貞樹(さだき)は何も言えず、紅茶をカップに注ぐ葉留(はる)を見た。


 大事なもの。クラシック音楽に対する極み以外に、求めるもの。その鍵となるものは理乃(りの)以外にない気がした。だが、無意味に肥大したプライドがせせら笑う。


(彼女に頼る? たった数ヶ月しか付き合いのない女性に?)


 トレーに三人分のカップを載せ、給湯室から出る葉留(はる)のあとに、重い足取りで続く。


「あれ、瀬良(せら)さん。寝てる」


 受付の片隅で、理乃(りの)は目をつむっていた。顔色は相変わらず悪いが、どうやらその寝入りは深いようだ。


瀬良(せら)さん、ここ最近は残業もしないように頑張ってるって言ってたしね」


 貞樹(さだき)はじっと、理乃(りの)の寝顔を見つめる。あったかもしれない甘い記憶、愛の記憶。そんなものすら彼女の姿を見ても浮き上がってこない。代わりに酷く、頭痛がする。


 葉留(はる)と共に少し離れたところに腰かけた、その直後だった。


「教室、開いてるのか。宇甘(うかい)


 ドアが開き、一人の青年が入ってきた。赤毛と(とび)色の目が特徴的な、野性味のある男。


「えーっと……?」

「どちら様でしょう」

「……お前、本当に俺のことも忘れたんだな。俺は上江(かみえ)上江(かみえ)隆哉(たかや)


 はあ、と生返事をする間にも、隆哉(たかや)と名乗る青年は教室を興味深く見渡している。端っこで眠る理乃(りの)を見つけると、ちょっと困ったように笑った。どこか、柔らかい笑みだ。


 理乃(りの)を見つめる視線と笑顔の柔らかさに、貞樹(さだき)はまるで心臓を掴まれた気持ちになる。焦燥感が酷い。何か、言い表せない腹立たしさが胃の辺りにむかつきをもたらした。


 そんな貞樹(さだき)の内心をよそに、隆哉(たかや)がこちらを向いて口を開いた。


「お前が事故起こして、記憶吹っ飛ばしたって聞いたんでな。様子を見に来た」

「どなたに聞いたのでしょうか」

「こいつだよ。理乃(りの)に決まってるだろ……ったく、こんなところで寝やがって。風邪引いたらどうすんだ」


 理乃(りの)、と平気で下の名を呼ぶ隆哉(たかや)の声は、やはり優しい。葉留(はる)が目をまたたかせる。


上江(かみえ)さんでしたっけ? 瀬良(せら)さんとはどういう関係なんです?」

「さてな。お前らの想像に任せる。ちょっとそこのピアノ、借りるぞ」

「え、ええ?」


 葉留(はる)が戸惑うさなか、隆哉(たかや)はシュノーケルコートも脱がずにアップライトピアノの前へ腰かける。立ち上がろうとした葉留(はる)を、貞樹(さだき)は思わず手で止めた。


「さだ……」


 なぜ止めたのか、自分でもわからない。隆哉(たかや)に関する記憶もない。彼もピアニストなのだろうかという純粋な好奇心が勝った。


 隆哉(たかや)が鍵盤に指を添え、ピアノを弾き始める。流れたのはモーツァルト作曲『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の第二楽章『ロマンツェ』。ゆったりとした甘いテンポから始まり、親しみと優しさのこもった音は、非常に心地よい。


(上手い)


 難しい曲ではないとはいえ、聴衆に光景を思わせる弾き方に対し、貞樹(さだき)はそう確信した。


「ん……」


 教室内に響く音で、だろうか。理乃(りの)が身動ぎした。ゆっくりと瞼が開く。


「……上江(かみえ)さん」


 ふんわりと、雪解けの春みたいな笑みを、彼女は浮かべた。心から聞き惚れているという、なんの(うれ)いもない笑顔を。それを見て、貞樹(さだき)の思考は真っ白になった。


(笑った……)


 ただ、それだけが頭を掠める。自分に対し向けていた笑顔には、全て(かげ)りがあった。なのに彼へ、隆哉(たかや)へ向けた微笑みにはそれがない。その事実がなぜか強く、胸を(さいな)む。


 理乃(りの)が目覚めたと同時に、隆哉(たかや)はすぐに演奏をやめた。彼女へ振り返る。


「起きたか」

「……上江(かみえ)さん? えっ、えっ?」


 唖然と、驚き。理乃(りの)は飛び跳ねるように、もたれかかっていた壁から肩を離す。完全に虚をつかれた、と言わんばかりの慌てっぷりだ。


上江(かみえ)さん、今、ピアノ……」

「別にいいだろ。あのままじゃお前、ずっと眠ってたかもしれないからな。風邪引くだろうが、馬鹿」


 けなす中にも、しかし親しみが込められた物言いだった。


(この二人の関係は……強い)


 隆哉(たかや)の台詞に、眼差し。貞樹(さだき)は理解してしまう。彼は今、理乃(りの)に向けてピアノを演奏した。そして彼女もそれに応えた。どこか通じ合うものがないとわからない、二人だけの合図。心の奥底に棘が刺さる感覚がする。氷結した棘が。


上江(かみえ)さん、ピアノ弾きましたよね? 今。またピアノを弾くんですか?」

「わかんねえよ。お前を起こすならこれが一番だと思っただけだ」

「え、でも……」

「……お二人は随分と仲がよろしいようですね」


 冷たく、固い貞樹(さだき)の言葉に理乃(りの)が肩を震わせた。怯えにも近い顔つきをしている。いや、戸惑いと迷いの方が強いだろうか。


「あっ、思い出した! ミュンヘン国際音楽コンクールのピアノで入賞した人だっ」


 唐突に葉留(はる)が声を張り上げる。ほう、と貞樹(さだき)は眼鏡を指で押し上げ、隆哉(たかや)を見つめた。隆哉(たかや)もまたこちらを見る。確固たる敵意がそこにはあった。


 なぜ敵視されているのかわからない。だが、ここで目を背けてはならない気がした。頭のどこかで、思い出せない何かに対する警鐘が鳴り響いている。


「どうりで素晴らしい演奏だと思いましたよ、上江(かみえ)君」

「そりゃどうも。あんたが俺を褒めるなんて意外だな」


 自嘲気味に笑い、隆哉(たかや)が視線を外す。理乃(りの)の方へと。


理乃(りの)、お前疲れてるだろ。送ってやるから早めに帰れ」

「……わたし、まだここにいたいです」

「私はもう帰りますよ、自宅に。家で思い出せるものがあるかもしれませんから。ですので、あなたももうお帰りになった方がいい」

「でも……」


 理乃(りの)が寂しげな(おもて)を作った。口を突いて出たのは柔らかい声だった。


「疲れてらっしゃるのでしょう? 無理はしないことが一番です」

貞樹(さだき)さん……」


 どこか安堵したような、泣き笑いにも似た微笑。貞樹(さだき)は内心、自分に驚いた。こんな甘ったるい声音は一体、どこから出せたのだろうと。


「わかりました。大人しく帰ります……貞樹(さだき)さんも気をつけて帰って下さいね」

「……ええ。あなたも」

「俺が送るっての」

上江(かみえ)さんの運転、荒っぽいからいいです」


 ちっ、と舌打ちする隆哉(たかや)を置き、理乃(りの)はコートを着てこちらへ一礼してみせる。


「それじゃあ貞樹(さだき)さん、池井戸(いけいど)先生。また今度」

「うん、じゃあねー」

「どうも。お疲れ様でした」


 理乃(りの)は頭を掻く隆哉(たかや)の横を通り過ぎ、外に出ていく。


宇甘(うかい)

「……なんでしょうか」


 隆哉(たかや)は大きく息を吸い、真剣な眼差しで貞樹(さだき)を見た。


「俺は理乃(りの)を、諦めない」


 貞樹(さだき)は頭を鈍器で殴られた気がした。何も言葉が出せない。心臓が脈を打つ。これ以上なく、激しく。


 無言の自分を隆哉(たかや)は睨むと、理乃(りの)のあとを追うように教室を駆け出していった。


「あらら……そういう関係だったのね、あの二人。これから大変そ」


 肩をすくめてこちらを見る葉留(はる)に、やはり何も言わず、黙って顎に手をやった。


 頭痛よりも傷口の痛みよりも、胸の動悸がただ、酷い。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ