5-4.Trübe Wolken~暗い雲~
……それから、どれだけ貞樹は溜息を吐き出したのだろう。自分でも数え切れない。
理乃のバイオリン演奏は偏っていた。確かに技巧は正確だ。弾き方の技――デタシェ、スラー、ボーインなどはある程度上手くできている。しかし、哀愁だけが耳にこびりつく感情の乗せ方はこの曲にふさわしくない。
試しに他の楽曲も弾かせてみた。全部、だめだ。全く心に響いてこない。どこまでもフラットな、悲しみだけがべたつくような楽曲に変わってしまっている。
失望にも近い何かが貞樹の胸に去来し、ピアノを弾く手を止めた。
「そのくらいにして、さだ。瀬良さんも疲れるだろうから」
「ええ。もう結構です」
冷ややかな声音が口から飛び出る。十分程度は弾きっぱなしだった。理乃に視線をやれば、真っ青な、疲労に満ちた顔を隠そうともしていない。葉留へバイオリンを渡す手も、どこか緩慢だ。
(過去の私は何を思って彼女へバイオリンを教えていたのか……)
自嘲で貞樹は唇を歪めた。これなら先程の女生徒――美智江の方が表現の乗せ方は巧みだ。クロイツェルを理乃と弾く意味など、今の演奏で見出すことはできない。
「瀬良さん、仕事帰りで疲れてるでしょ? お茶入れてくるから待ってて」
「……ありがとうございます、池井戸先生」
「私にもお願いします、葉留」
言うと、なぜか葉留に睨まれた。疲弊した様子で椅子へ座る理乃を置き去りに、貞樹も葉留のあとを追う。
「何を怒っているんです」
葉留は何も言わず、バイオリンを別室に片付けた。
「眉がつり上がっていますよ。彼女にバイオリンを弾かせたことが、そんなに不服ですか?」
二人で給湯室に入る。葉留は紅茶を入れる準備をしながら、不機嫌な溜息をついた。
「瀬良さんはね、自分の音色を探そうとしてた。クロイツェルも一所懸命に練習してた。さだと一緒に。そんな今までの瀬良さんを、さだは壊そうとしてる」
「彼女とクロイツェルを弾く意味を知りたかったんですよ。あの程度の技量で、難易度の高いクロイツェルを弾けるとあなたまで思ってるんですか」
「天才様には秀才の気持ち、わかんないよ」
嘲るように言われて、さすがに貞樹もむっとした。
「天才だとか秀才だとか、そんな議論をしているのではありません。自主公演を行うなら、私はやはり完璧を目指したい」
「そこが天狗だって言ってんの。覚えてないこと言うのもあれだけど、さだは教室を開くときも公演を開くって決めたときも、聴く人、弾く人が楽しいものにしたい、って言ってたんだよ」
葉留の言葉に思わず目を見張る。完璧、完全、調和。昔からそれらを理念として音楽に向き合ってきたはずだ。そんな信念を崩すような出来事が何か、空白の記憶の中にあるのだろうか。
「……忘れるって悲しいね。本当に大事なものまで抜け落ちちゃうんだもん」
葉留はささやく。悲嘆を込めて。貞樹は何も言えず、紅茶をカップに注ぐ葉留を見た。
大事なもの。クラシック音楽に対する極み以外に、求めるもの。その鍵となるものは理乃以外にない気がした。だが、無意味に肥大したプライドがせせら笑う。
(彼女に頼る? たった数ヶ月しか付き合いのない女性に?)
トレーに三人分のカップを載せ、給湯室から出る葉留のあとに、重い足取りで続く。
「あれ、瀬良さん。寝てる」
受付の片隅で、理乃は目をつむっていた。顔色は相変わらず悪いが、どうやらその寝入りは深いようだ。
「瀬良さん、ここ最近は残業もしないように頑張ってるって言ってたしね」
貞樹はじっと、理乃の寝顔を見つめる。あったかもしれない甘い記憶、愛の記憶。そんなものすら彼女の姿を見ても浮き上がってこない。代わりに酷く、頭痛がする。
葉留と共に少し離れたところに腰かけた、その直後だった。
「教室、開いてるのか。宇甘」
ドアが開き、一人の青年が入ってきた。赤毛と鳶色の目が特徴的な、野性味のある男。
「えーっと……?」
「どちら様でしょう」
「……お前、本当に俺のことも忘れたんだな。俺は上江。上江隆哉」
はあ、と生返事をする間にも、隆哉と名乗る青年は教室を興味深く見渡している。端っこで眠る理乃を見つけると、ちょっと困ったように笑った。どこか、柔らかい笑みだ。
理乃を見つめる視線と笑顔の柔らかさに、貞樹はまるで心臓を掴まれた気持ちになる。焦燥感が酷い。何か、言い表せない腹立たしさが胃の辺りにむかつきをもたらした。
そんな貞樹の内心をよそに、隆哉がこちらを向いて口を開いた。
「お前が事故起こして、記憶吹っ飛ばしたって聞いたんでな。様子を見に来た」
「どなたに聞いたのでしょうか」
「こいつだよ。理乃に決まってるだろ……ったく、こんなところで寝やがって。風邪引いたらどうすんだ」
理乃、と平気で下の名を呼ぶ隆哉の声は、やはり優しい。葉留が目をまたたかせる。
「上江さんでしたっけ? 瀬良さんとはどういう関係なんです?」
「さてな。お前らの想像に任せる。ちょっとそこのピアノ、借りるぞ」
「え、ええ?」
葉留が戸惑うさなか、隆哉はシュノーケルコートも脱がずにアップライトピアノの前へ腰かける。立ち上がろうとした葉留を、貞樹は思わず手で止めた。
「さだ……」
なぜ止めたのか、自分でもわからない。隆哉に関する記憶もない。彼もピアニストなのだろうかという純粋な好奇心が勝った。
隆哉が鍵盤に指を添え、ピアノを弾き始める。流れたのはモーツァルト作曲『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の第二楽章『ロマンツェ』。ゆったりとした甘いテンポから始まり、親しみと優しさのこもった音は、非常に心地よい。
(上手い)
難しい曲ではないとはいえ、聴衆に光景を思わせる弾き方に対し、貞樹はそう確信した。
「ん……」
教室内に響く音で、だろうか。理乃が身動ぎした。ゆっくりと瞼が開く。
「……上江さん」
ふんわりと、雪解けの春みたいな笑みを、彼女は浮かべた。心から聞き惚れているという、なんの愁いもない笑顔を。それを見て、貞樹の思考は真っ白になった。
(笑った……)
ただ、それだけが頭を掠める。自分に対し向けていた笑顔には、全て翳りがあった。なのに彼へ、隆哉へ向けた微笑みにはそれがない。その事実がなぜか強く、胸を苛む。
理乃が目覚めたと同時に、隆哉はすぐに演奏をやめた。彼女へ振り返る。
「起きたか」
「……上江さん? えっ、えっ?」
唖然と、驚き。理乃は飛び跳ねるように、もたれかかっていた壁から肩を離す。完全に虚をつかれた、と言わんばかりの慌てっぷりだ。
「上江さん、今、ピアノ……」
「別にいいだろ。あのままじゃお前、ずっと眠ってたかもしれないからな。風邪引くだろうが、馬鹿」
けなす中にも、しかし親しみが込められた物言いだった。
(この二人の関係は……強い)
隆哉の台詞に、眼差し。貞樹は理解してしまう。彼は今、理乃に向けてピアノを演奏した。そして彼女もそれに応えた。どこか通じ合うものがないとわからない、二人だけの合図。心の奥底に棘が刺さる感覚がする。氷結した棘が。
「上江さん、ピアノ弾きましたよね? 今。またピアノを弾くんですか?」
「わかんねえよ。お前を起こすならこれが一番だと思っただけだ」
「え、でも……」
「……お二人は随分と仲がよろしいようですね」
冷たく、固い貞樹の言葉に理乃が肩を震わせた。怯えにも近い顔つきをしている。いや、戸惑いと迷いの方が強いだろうか。
「あっ、思い出した! ミュンヘン国際音楽コンクールのピアノで入賞した人だっ」
唐突に葉留が声を張り上げる。ほう、と貞樹は眼鏡を指で押し上げ、隆哉を見つめた。隆哉もまたこちらを見る。確固たる敵意がそこにはあった。
なぜ敵視されているのかわからない。だが、ここで目を背けてはならない気がした。頭のどこかで、思い出せない何かに対する警鐘が鳴り響いている。
「どうりで素晴らしい演奏だと思いましたよ、上江君」
「そりゃどうも。あんたが俺を褒めるなんて意外だな」
自嘲気味に笑い、隆哉が視線を外す。理乃の方へと。
「理乃、お前疲れてるだろ。送ってやるから早めに帰れ」
「……わたし、まだここにいたいです」
「私はもう帰りますよ、自宅に。家で思い出せるものがあるかもしれませんから。ですので、あなたももうお帰りになった方がいい」
「でも……」
理乃が寂しげな面を作った。口を突いて出たのは柔らかい声だった。
「疲れてらっしゃるのでしょう? 無理はしないことが一番です」
「貞樹さん……」
どこか安堵したような、泣き笑いにも似た微笑。貞樹は内心、自分に驚いた。こんな甘ったるい声音は一体、どこから出せたのだろうと。
「わかりました。大人しく帰ります……貞樹さんも気をつけて帰って下さいね」
「……ええ。あなたも」
「俺が送るっての」
「上江さんの運転、荒っぽいからいいです」
ちっ、と舌打ちする隆哉を置き、理乃はコートを着てこちらへ一礼してみせる。
「それじゃあ貞樹さん、池井戸先生。また今度」
「うん、じゃあねー」
「どうも。お疲れ様でした」
理乃は頭を掻く隆哉の横を通り過ぎ、外に出ていく。
「宇甘」
「……なんでしょうか」
隆哉は大きく息を吸い、真剣な眼差しで貞樹を見た。
「俺は理乃を、諦めない」
貞樹は頭を鈍器で殴られた気がした。何も言葉が出せない。心臓が脈を打つ。これ以上なく、激しく。
無言の自分を隆哉は睨むと、理乃のあとを追うように教室を駆け出していった。
「あらら……そういう関係だったのね、あの二人。これから大変そ」
肩をすくめてこちらを見る葉留に、やはり何も言わず、黙って顎に手をやった。
頭痛よりも傷口の痛みよりも、胸の動悸がただ、酷い。




