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【完結】歪みの旋律~わたしが愛を知るまでのレッスン~  作者: 実緒屋おみ@忌み子の姫は〜発売中
第一章:歪な旋律

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1-2.attacca~休みなく先へ~

 藍色と黄昏の空は美しい。ナナカマドや銀杏の葉が道路に乱雑に落ちている。理乃(りの)は低いパンプスを鳴らし、帰りの会社員でごった返す地下鉄に乗った。途中、スマートフォンを見て連絡アプリを確認したが、隆哉(たかや)からの連絡はない。


 少し安堵しながら普段使う駅で降り、階段を使って外に出る。時刻は六時半頃。急いで教室へと向かった。


 優しい橙の明かりが教室には点いていて、胸を撫で下ろす。緊張しながら自動ドアの向こうに入ると、心を和ませるピアノの曲が耳に入ってきた。


「いらっしゃいませ。……おや」


 受付にいた昨夜の男、貞樹(さだき)が何かの作業をやめ、理乃(りの)を見てくる。昨日と同じく厳しい顔つきのままで。


「こ、こんばんは……」

「こんばんは。もしかして、レッスンをご希望でしょうか」


 理乃(りの)が頷けば、貞樹(さだき)は受付隅にある椅子を勧めてきた。コートを脱いでそこに腰かける。机を挟み、スーツ姿の貞樹(さだき)も座った。


 貞樹(さだき)が差し出してくれた紙コップのお茶にも手をつけず、理乃(りの)は早速話を切り出す。


「あの、まだ生徒さんは募集してますか……? コースはバイオリンを希望しているんですけど……」

「つい先程、定員に達したところです。ピアノなら平日の昼間に空きはありますが」

「そ、そうなんですね……わかりました。それならいいです……」

「お待ち下さい。私の勘違いでしたら申し訳ないのですが、あなたは瀬良(せら)さんでは?」


 名を言い当てられて驚く。が、すぐに頭を振ってうつむいた。


「え、えっと。多分姉と間違えているかと……ミュンヘンのコンクールで二位を受賞したのは、わたしの双子の姉です」

「でしょうね。瀬良(せら)……莉茉(りま)さんでしたか。二位に入ったのは。少しお話をしたのでわかりますが、その方とあなたとでは声質も雰囲気も違いますので」

「はあ……」


 ここでも姉と比べられているのか、と貞樹(さだき)の言葉にますますうなだれる。そんな理乃(りの)貞樹(さだき)はじっと見つめ、唇をほんの少しだけほころばせた。


「お名前を伺ってもよろしいですか」

「……理乃(りの)瀬良(せら)理乃(りの)です」


 レッスンも受けないのに、名を告げる必要があるのだろうか。疑問に思いながらも理乃(りの)は顔を上げ、素直に名乗ってしまった。押しに弱い一面が恨めしい。


「わたしは、昨日名刺をお渡ししたのでおわかりでしょうが、宇甘(うかい)です。宇甘(うかい)貞樹(さだき)と申します。教えられるのはバイオリンとピアノです」

「でも……定員に達したんです、よね?」

「はい。ですが、あなたが条件を飲んで下されば、個人レッスンをねじ込みましょう」

「条件ですか……?」


 貞樹(さだき)はどこか艶やかに微笑む。唐突な申し出と艶美な笑みに、理乃(りの)は気圧された。


「条件はただ一つ。あなたが私の恋人になってくれれば」

「……はい?」

「ああ、言い方が悪かったですね。恋人のふりをしていただきたいのです。女性除けに」

「え、えっ?」


 言い直されても突然すぎる条件だ。混乱し、思わずぽかんと口を開けてしまった。戸惑いを隠しきれない自分に、しかし貞樹(さだき)は紙コップの茶を飲んで平然と続ける。


「私はレッスンに私情を挟みたくはありません。ですが生徒の大半は女性でして。いらぬ思いをさせるよりかは、と。困ったことに、もう無駄に差し入れをしてくる生徒もいます」


 眉を寄せる貞樹(さだき)は、紙コップを置いて大きな溜息をついた。男の色気を漂わせる様子に、理乃(りの)の胸すら高鳴る。すぐに我に返ったが。


 確かに貞樹(さだき)は顔も良く、身長も高い。(いわお)のような(おもて)と微笑んだときの顔、そのギャップにのぼせる女性は多いだろう。眼鏡やスーツも細身の姿に映えており、まさにできる男、という言葉がふさわしい。


 しかし、外見の良さに絆されるほど理乃(りの)は甘くなかった。それに、恋人のふりなど地味な自分に務まるとも思えない。


「わたし……」

「もちろん、あなたに今現在恋人がいらっしゃるなら、この話はなかったということで。私が困っているのは確かですが」


 断ろうとした理乃(りの)を遮り、貞樹(さだき)は目を細めた。ずるい言い方、と理乃(りの)は唇を噛む。


 隆哉(たかや)の顔が脳裏に浮かんだ。女と酒に溺れている彼の姿が。彼のために、隆哉(たかや)の更生を目的としてここに来た自分だって、十分不純だ。


 でも、と思案に耽る。理乃(りの)は男慣れなどしていなかった。大学時代に一度、清い交際をした程度の恋愛経験しかない。しかも数ヶ月で破局した。隆哉(たかや)との関係を疑われての失恋だ。無論その時、隆哉(たかや)とは不道徳な関係性ではなかったけれど。


「あなたがこの条件を飲んで下さると言うのなら、月謝も少し安くしましょう。そうですね、個人レッスン一回につき、六十分で七千円程度はいかがですか。入会金は一万円」


 貞樹(さだき)が追い打ちをかけるように提案してくる。理乃(りの)はうつむいたまま、膝に置いていた両手を力強く握った。


 国際音楽コンクールで優勝した人間に、一対一で教えてもらえる機会。しかも、安い。こんなチャンスはそうないだろう。二年間のブランクもすぐに取り戻せるかもしれない。


 揺らぐ内心をそのままに、困った顔を上げて情けなく聞いてみる。


「恋人の……ふり、なんですよね? 具体的にわたしは何をすればいいのか……」

「教室が終わったらできる限り二人でいる、というようにして下されば結構です」

「教室はいつ開かれるんですか?」

「月・水・金ですね。個人レッスンはあなた以外に入れてありません。土曜日にあなたのレッスンを行いますので、それ以外の先程の日に教室に来てほしいのです。用事などがある場合は仕方ありませんが」


 付け加えられた言葉に、ちょっとだけ安心した。これなら隆哉(たかや)の呼び出しにも応じられるだろう。だが――


「わたしでいいんでしょうか。わたしたち、多分年も離れてると思うし、それに……」

「……覚えていませんか、私のことを」

「え? ミュンヘンのコンクールでお見かけしました……けど」


 嘘をついた。貞樹(さだき)は見定めるように、理乃(りの)を鋭い目付きで見つめたままだ。理乃(りの)は必死に頭を回転させるが、やはり他に貞樹(さだき)との記憶はない。忘れているのか、それとも貞樹(さだき)の勘違いとしか思えなかった。


 貞樹(さだき)が軽く頭を振る。後ろで縛られている焦げ茶の髪が少し、揺れた。


「まあ、それはいいでしょう。他に何も問題がなければお願いしたいのですが」

「わかりました。バイオリンを教えてもらえるなら……」


 諦めたように理乃(りの)は受け入れる。正直、恋人のふりなんてどうすればいいのかわからなかったが、それより隆哉(たかや)を蘇らせるためにバイオリンを習っておきたい気持ちが(まさ)った。


「ではそのように。よろしくお願いします、瀬良(せら)さん。今、入会手続きのための書類を持ってきますので」


 小さく頷くと、貞樹(さだき)は立ち上がり受付の方へと歩いて行った。安堵し、理乃(りの)はそこでようやく冷めたお茶を口にする。流れているピアノの旋律が、ようやく耳に戻ってきた。


(大変なことになっちゃった……でも、こうなったらしっかり教えてもらわないと)


 なぜ貞樹(さだき)が自分を恋人役として選んだのか、それすら定かではない。記憶もほとんどない。大それた役目が務まるのかかなり不安だが、隆哉(たかや)のためと言い聞かせた。


 考えているうちに、貞樹(さだき)がクリップボードを持って戻ってくる。


「こちらに記載をお願いします」


 差し出された書類には名前や住所の他、経験者かどうか、などを記す箇所がある。理乃(りの)は受け取り、備え付けのペンで少しずつ項目を埋めていった。その他のところに二年楽器に触れていないか書くかで迷い、正直にそれも記載する。


 書き終え、再び腰かけている貞樹(さだき)にボードを渡した。書類に目を通す貞樹(さだき)が顔を上げる。


「二年、バイオリンは弾いていなかったのですね。仕事で忙しかったからでしょうか」

「そ、そんなところです」

「なるほど。瀬良(せら)さん、明日の昼夜は開いていますか?」

「土日は休みなので……今のところ何も」

「では一日、私に付き合って下さい。お互いのことを良く知りたいと考えていますので」

「それって……あの」

「昼にランチをご一緒しましょう。夕方からレッスンを始めます。連絡先を交換しても?」

「は、はい」


 スマートフォンを取り出した貞樹(さだき)にうながされるように、理乃(りの)も似た形のそれを鞄から出す。互いに操作すれば、理乃(りの)の連絡アプリに『宇甘(うかい)貞樹(さだき)』という名前が追加された。


「明日の十一時、地下街の入口にあるモニター前で待ち合わせしましょう。場所はわかりますか?」

「大通駅のですよね。大丈夫です……あの、バイオリンを持っていってもいいですか」

「ご自分のものなら手に馴染みやすい。結構ですよ。それでは明日、楽しみにしています。入会金と月謝の一部は明日、いただくということで」


 薄く笑む貞樹(さだき)へ、理乃(りの)はうつむき加減に頷く。


「夜も遅くなってきました。気をつけて帰って下さい。なんなら送りますが」

「い、いえ、大丈夫です。わたし、これで失礼します」


 立ち上がりコートと鞄を持つ。頭を下げて、そそくさと逃げるように教室を後にする。カーディガンとスカートの格好に秋の風は冷たすぎた。でも思考は明日のことで一杯だ。


(……少し、宇甘(うかい)さんのこと調べておこうかな)


 外の角でコートを羽織り、教室の方を見る。貞樹(さだき)の姿はここから見えなかった。

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