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3-2.rabbia~怒り~

 金曜日。勤務の最中、昨夜過分にとったアルコールが頭痛となって理乃(りの)(さいな)む。普段は滅多にここまで飲まないのだが、半ばやけでカクテルを注文し続けたのがまずかった。


 頭痛を抑える薬を服用して楽になれば、今度は貞樹(さだき)への気持ちが膨らんで胸が苦しい。今日は約束の日だ。教室に行かねばならない。


(……恋)


 パソコンと睨み合いながら、思い浮かぶ単語を振り払うように仕事へ集中した。上手くいかない。どうしても貞樹(さだき)の声や手の感触、そして微笑みが頭から離れなかった。


(わたしが恋なんてしちゃいけない……)


 素直になるだけ、と千歳(ちとせ)は言った。でも、思いを自覚すればするほど意固地な自分が顔を覗かせる。特に今月――十二月は莉茉(りま)の命日がある月だ。同月の誕生日前に急死した姉を思えば、自然と隆哉(たかや)のことも脳裏を(かす)める。


上江(かみえ)さんを助けるため始めたことなのに)


 嘆息し、窓の外を見る。雪が本格的に降り始めていた。白い粒を見るたび、苦しさだけが心の底に沈殿していく気になる。気持ちは鬱屈していくばかりだ。


 幸い仕事は今のところ急ぎのものはない。明日は休みだが、久しぶりに休日出勤をしてもいいだろう。


 昼過ぎに上司へ頼み、早退扱いにしてもらった。重い足取りで冬用の黒いコートを羽織り、鞄を持って会社から出る。足枷をはめられたかのように、歩みが遅いと自分で思う。


 教室が終わるまでまだ時間はあった。本屋にでも向かおうかとも考えたが、どうにもそういう気になれず、適当な店で昼食をとる。時間を潰し、教室へ行くことに決めた。


 いつものコースを辿り、教室につくと受付には葉留(はる)がいた。


「あらっ、瀬良(せら)さん。こんにちは、今日は早いのね」

「こんにちは、池井戸(いけいど)先生。はい……ちょっと。待たせてもらっても大丈夫でしょうか」

「どうぞー。さだは今レッスン中よ。終わるまでまだ時間があるから、大分待つけど」

「いいです、それでも。椅子、借りますね」


 頷かれ、隅っこの席へ腰かけた。鞄から翻訳された海外小説を取り出す。貞樹(さだき)から借りたミステリー小説だ。普段あまりミステリーなどは読まないのだが、ドラマ化された原作ということもあり、スムーズに読み進めることができている。


 数ページ読んで本の世界へ没頭し始めた時、目の前のテーブルにクッキーとお茶が置かれた。顔を上げると、なぜか正面に葉留(はる)が座っている。


瀬良(せら)さん。少し話しましょうよ」

「なんの話でしょうか……?」

「そりゃーもう、決まってるじゃない。あなたとさだの話よ。さだのやつ、いつの間にか恋人なんて作ってるんだもん。びっくりしちゃって」

「そ、そうですか」


 頬杖をつき、笑顔を浮かべる葉留(はる)理乃(りの)は気圧される。親しげな名前呼びを許す間柄、そこが少し気になった。


池井戸(いけいど)先生と……貞樹(さだき)さんは、長いお付き合いがあるんですか?」

「長い長い。嫌って言うくらいの長さよ。ねっ、二人はどこで出会ったの?」

「コ、コンサートホールです……半年前に」

「なるほどねー。さだのやつ、こんな可愛い子捕まえておきながら、あたしには内緒にしてたか」


 可愛い、と言われて困惑しながらお茶を飲む。温かいほうじ茶だ。その間にも葉留(はる)はクッキーを頬張っている。


瀬良(せら)さんはさだに個人レッスン受けてるんだよね? 来年の自主公演には出るの? あたしは伴奏で出るけど」

「ま、まだ悩み中です」

「クロイツェルでしょ、目玉の演目。さだがそれを担当するから、瀬良(せら)さんがバイオリンを弾くって聞いてはいたけど。なんだ、悩み中なのか」

「難易度が高い曲ですし……ちょっと勇気が足りなくて」

「さだのことだ、無理やり出させるよ。絶対。あいつはそういう男だ」


 一人首肯する葉留(はる)を見て、理乃(りの)の胸に暗雲が立ちこめる。曲についてではなく、なぜか貞樹(さだき)の全てを知っているような物言いに。つきん、と心臓が痛む気がした。


(二人はどういう関係なのかな……)


 疑問を解消するには、あまりに自分は宙ぶらりんの状態だった。貞樹(さだき)に告白されたわけでもなく、こちらが彼に抱いている感情もあやふやで。そんな中で問い質すこともできない。


「そうだ、瀬良(せら)さん。よければあなたの演奏聴きたいんだけど、どうかな」

「わ、わたしの演奏をですか?」


 我に返したのは、唐突なまでの葉留(はる)の提案だった。突然の言葉に理乃(りの)は目を丸くした。


「うん。あたしが伴奏するから。さだが見定めたっていうくらいだもん。どんな感じで曲を弾くのか知りたくてね」

「でもわたし……まだリハビリ中ですし」

「曲は瀬良(せら)さんに合わせるから。ねっ、お願いっ」


 懇願に逡巡(しゅんじゅん)する。両手を合わせて頼まれてしまえば、押しに弱い理乃(りの)には拒むことはできない。小さく頷いて返事に代えた。


「やった。今日、バイオリンは貸すから。空いてるもう一室に行こう」

「あの、本当に期待しないで下さい……」


 小さく呟くも、葉留(はる)は聞いていないようだ。颯爽と立ち上がって理乃(りの)を手招くものだから、荷物を持って後に続く。


 いつもとは違う防音室に通され、理乃(りの)は嘆息しながらコートを脱いで葉留(はる)を待った。バイオリンを持ってやって来た彼女は、どこか機嫌がいい。


「はいこれ。いつもとは使い勝手が違うだろうけど。曲は何がいい? 今ある楽譜は……」


 バイオリンを渡され、いくつかの曲名を口に出された。どれもアップテンポ、明るめの曲だ。貞樹(さだき)に言われた言葉を思い出せば、情熱的な演奏を弾くのはまだ早いかもしれない。


 哀しく、うら寂しい曲――と記憶をまさぐる。すぐに見つかった。


「スメタナの『わが祖国』第二曲……モルダウはだめですか」

「え? いや、いいけど。ゆっくり弾いてもいい?」

「はい、大丈夫です」

「オッケ、わかった。楽譜あるから、その間にバイオリンの準備してて」


 大量の楽譜を持ってまた出ていく葉留(はる)を見送り、理乃(りの)はバイオリンケースを開けた。


 スメタナの曲の中で最も有名なのが、このモルダウだ。日本でも様々なCMで使われているし、合唱で耳にすることも多い。雄大な川の流れや幻想的さを連想させるこの曲は、頭に浮かんだ楽曲の中で、ある程度自分が弾けるくらいだと見越した。


「あったあった。交響曲のだから奥に置かれてた。ミスったら許してね」


 言いつつ帰ってきた葉留(はる)は、先程までと雰囲気が異なる。明朗さは変わらないが、より覇気に満ち溢れていた。メトロノームや楽譜をセットしていく葉留(はる)を横目に、理乃(りの)もバイオリンを構える。テンポが原曲より少し遅いが、リハビリ中の身にとってはありがたい。


「じゃ、始めるよ。よろしく」


 小さく頷く。ピアノの独奏が始まった。最初は静かに、そして次第に盛り上がっていく瞬間を聞き逃さない。タイミングよく弓を引く。手と体は上手くついてきてくれた。


 広大な川、自然、妖精たちの踊り――今、イメージできる最大限の熱量を曲に乗せる。急がずに、森や渓流、昔動画で見たチェコの映像を想起しながら。


 だが、タン、とピアノの音が唐突に途切れた。止まるのが遅れて、少し長引かせてしまう。葉留(はる)の音は間違ってはいない。自分も間違いなく弾けていたはずだ。どうしたのかと思い、バイオリンを降ろして葉留(はる)を見た。


「あ、あの……」

「……んー」


 葉留(はる)は難しそうな顔で楽譜を睨んだのち、理乃(りの)の方に向き直る。その(おもて)は渋い。


「楽しくなさそうだね、なんか」

「え……」

「悲しみだけが強調されてるよね。モルダウの解説読んだりしたことある?」

「あ、ありますけど」

「じゃ、今の部分は哀愁じゃなくて『これから先の希望』を見据えた音にならないかな」

「……ごめんなさい」

「なんだろうね、瀬良(せら)さん。失礼だけど」


 しょげてしまう理乃(りの)に、葉留(はる)は眉を寄せて言い放つ。


瀬良(せら)さんて、本当にバイオリンが好きなの?」


 鋼のような一言だった。鋼で作られた言葉の剣。それは冷たさを帯びて理乃(りの)の心を穿つ。思わず息を飲んで、しかし衝撃のあまり口から何も出てこない。全身から血の気が引く。


「こういうのもあれだけど、ここにないね、心。さだに言われてない?」


 歯に衣着せぬ物言いは続く。そう、自分の心はここにない。そうだというのに、貞樹(さだき)にバイオリンを習うなんて失礼ではないのか。不誠実極まりないのではないか。考えれば考えるほど、自分の顔から表情が消えるのがわかった。


 何も言わずその場に腰を落とし、ケースにバイオリンを入れる。慌てたように葉留(はる)が立ち上がったが、そんなことどうでもよかった。


瀬良(せら)さん、あのね」

「わたし、失礼します。今日と明日は会えないと貞樹(さだき)さんに伝えて下さい」

「えっ。いや、それはさだに怒られるって、あたしが」


 空洞な心のまま、バイオリンを片付け荷物を持った。コートも着ず、ベージュのスカートをなびかせて、防音室から逃げるように飛び出る。


理乃(りの)?」


 駆け出したとき、貞樹(さだき)の声が後ろから聞こえた。理乃(りの)は返答も振り返ることもせず、そのまま駆け足で教室を飛び出し、少し暗くなった外の歩道を走り続ける。


 葉留(はる)の言葉に言い返せないことが悔しかった。悔しいと思う自分に、そんな感情はどこで眠っていたのかと内心、自嘲する。無力ならば、精一杯努力して見返せばいいだけだというのに。


 それすら今はできそうになく、自分の弱さに無性に腹が立った。

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