8.おもかげ
——マリちゃんおはよう。今日も可愛いね。
などというセリフは二次元の世界だから許されるものじゃないのか。
現実にこんなこと言ってくる人がいたら、その場で聞いていた人たちはドン引き間違いないだろう。
少なくともわたしはその一言を聞いて以来、彼のことを痛い人として見てしまう傾向が強まった。
大西先輩の口から出てくる言葉は、どれも信頼できないものばかりだ。
あの日以降、顔を合わせるたびに彼が言うのは可愛いだの面白いだの、とてもわたしに対しての褒め要素ではないことばかり。あり得なさが際立って、全く真に受けることができない。
それでも学校の女子はわたしの立場を羨むというのだから、非常に不思議だ。
大西先輩に目をつけられてからというもの、図書室に通う頻度が以前と比べて格段に上がった。
校内で遭遇すると大西先輩は、周囲の目も気にせずこちらに話しかけてくる。なので四限目が終了したら手早く昼食を済ませ、逃げるように教室を出るのがここ最近のわたしの行動パターンと化していた。
わたしが逃走済みの昼休みも先輩は数日おきで教室に訪ねて来ているらしいとは、クラスの女子がしゃべっているのを小耳にはさんで知った。
大西先輩が気にかけてくると、学校でのわたしの立場はどんどん悪くなっていく。
今ではカナメが近くにいなければ、クラスメイトのほとんどが口もきいてくれない状態となってしまっている。
正直、これは大西先輩のしかけた新手のいじめか何かじゃないのかと思う。
わたしは彼に恨まれるようなことでもしたのだろうか。
それとも、彼は針のむしろにわたしを座らせて遊んでいるのかもしれない。
とにかくもう本当に、わたしに構うのはやめてほしい。
……そしてもうひとり。
この平凡で変哲のないはずだった学校生活を脅かしかけている存在——クラスメイトの佐野君も。
佐野君はクラスメイトから疎まれているわたしの敵にはならない。むしろ常に友好的な態度で接してくる。
クラスの女子がわたしに聞こえるように悪口を言っていたら、すぐにでも彼女たちに注意してくれる。
佐野君はわたしに対して優しい。
カナメがいないとき、クラスではぶられているわたしを気遣ってよく話しかけてくれる。
佐野君は容姿もよくて、大西先輩に匹敵するぐらい女子から人気のある生徒だ。
彼に声を掛けられて会話をする機会が増えると、必然的にわたしは嫉妬のこもったおびただしい視線にさらされる。
このことに、佐野君は気付いているのだろうか。
5月の終盤。晴れた日の昼間は暑さを感じるほど気温が上がり、田んぼではカエルの声が響きだした。
大西先輩と佐野君を避けるため、わたしの昼休みの図書室通いは相変わらず続いていた。
本日の図書室にはカナメも同行している。
カナメは書物に興味がないようで、隣のいすに腰掛けて早々腕を枕に爆睡してしまった。
近頃は頻繁に通い詰めたおかげで、図書室に所蔵されているブラックジャックは一通り読破してしまった。今読んでいるのは火の鳥だ。
昼休みに図書室を利用する人はまばらで、本をめくる小さな音とカナメの寝息が聞き取れるぐらいに室内は静まり返っていた。
隣のカナメが身じろぐ。眠りやすい体勢を整えると、再び動かなくなった。
カナメと一緒にいるときは、大西先輩と遭遇することが少ない気がする。
偶然なのだろうけど、教室内でもわたしとカナメが行動を共にしていると佐野君も声をかけてはこない。
いや、これは単にわたしがひとりじゃないなら佐野君は気を遣わなくていいってだけか。
とにかくカナメの大西先輩回避スキルは半端じゃなく、それゆえにわたしはカナメに自分の現在の状態を話せていなかった。
大西先輩に告白されたことは報告した。
その時はすごく驚いて、不安そうにうろたえていたけど、付き合う気など全くないとわたしが言ったらカナメはほっと胸をなでおろしていた。
そこから先、わたしと大西先輩の遭遇場面を見ていないカナメはもう、先輩をもう終わった人だと思っている。
本当はカナメに相談したい。
大西先輩と、学校中の女子が怖いからずっと一緒にいてほしいと言いたいけれど……、それはつまり、カナメのわたしに対する好意を利用することにつながるわけで。
大事な友達を、自分の身を守るために都合よく使うのはどうしても憚られた。
カナメはこのまま、変わらずにいてくれるだけでいい。
他には何も望まないから、彼女を失いたくない。
予鈴が鳴って、読んでいた本を元の位置に戻した。
机に戻ってカナメを起こし、ふたりで教室へと足を進める。
眠たそうにあくびをして、カナメが自身の首の裏筋を手で揉んだ。
「眠いなー。マリちゃんわたし5限目帰るわ」
「あんまりさぼると出席日数が足りなくなるよ。5限は保健室で寝て、6限は参加とかできないの?」
「んー……」
肩を叩きながらカナメが廊下の天井を見つめる。変な体制で眠ったから首が痛いのか?
「止めとく。保健室のあのおばさん、なんかさぼりは許してくれそうにないし。仮病は男女関係なく追い返されそうだもん」
……こいつにとってはプロポーション抜群な近衛先生もおばさんなのか。
宣言通りカナメは教室に戻ると、おそらく何も入っていないであろうぺたんこなカバンを持って、チャイムが鳴る前にそそくさと帰ってしまった。
「栗原さん、帰ったんだね」
ひとり自分の席でぼうっとしていたわたしのもとに、佐野君が来た。
お願い止めて話しかけないで。あっちで三谷さんたちが睨んでるんだよ。
「……あ、ああ、うん。授業を受ける気分じゃないみたい」
「気分って……、彼女2年に進級できるのかなあ」
「本人は問題ないって言ってるけど、実際はどうだろうね」
苦笑する佐野君につられて、微かに肩の力が抜ける。
自分を受け入れてくれる人と話すのはやっぱり落ち着く。先のことを考えなくてもいいのなら……、だけど。
「築山さんも、栗原さんがいなかったら寂しいだろうし。困ったことがあったら気軽に言ってね」
「ありがとう。でも、授業受けるのに困ることなんてないと思うよ」
「うん。確かにそうかもね」
佐野君が自分の席に戻っていく。
ちらっと横目で見た三谷さんたちは相変わらず不満そうな顔をして睨んでた。
5限目の授業中、ふと佐野君と交わした言葉を思い出してひらめいた。
もしかして、佐野君はカナメのことが好きなのかもしれない。だからカナメと一番親しいわたしにも優しくしてくれるのではないだろうか。
わたしは佐野君にとって、イメージアップの点数稼ぎだったとしてもおかしくはない。
そう考えると、佐野君のわたしに対する気遣いもいろいろと納得できる。
……とんだとばっちりだな。
授業は全く耳に入らず、勝手に出した結論にふつふつと静かな怒りがこみ上げる。
いい人アピールをされたところで、わたしがカナメにそれを伝えることはまずないよ。
わたしだって、カナメを誰かに取られるのは嫌だからね。
5限と6限の間にある十分休憩でのことだった。
「へー、じゃあ草野君って前はこの街にいたんだ」
後ろから聞こえてきた声が気になって振り返ると、草野君が松井さんと話していた。
「まあな。といっても、前に住んでたのは西のほうだし、小学校に上がる前には引っ越したからな。昔すぎてほとんど覚えてないが」
微かに遠い目をして語る草野君に、松井さんがテンションをあげる。
わたしの心臓も人知れず高鳴った。
「西って、ひょっとして早森学区? わたし今もそこに住んでるよ」
草野君との共通点を見つけて松井さんは興奮冷めやらぬ様子だ。
わたしは前に向き直って、ばれないように聞き耳を立てる。
「家は? わたし古浜町なんだけど」
「あー、そっちの方は分かんねえわ。俺、稲箸町だったから」
……え?
思わず振り返りそうになったのを、懸命に我慢した。
稲箸町って、わたしの住んでいるところだよ。
草野君と松井さんは、地元の人間にしか分からない話題で盛り上がっている。
わたしたちが生まれる前からあるスーパー。大きな看板が目印のバイク屋。市民プールと、その隣にあったコスモス畑——。
幼少期しかいなかったと言いながらも、草野君はいろんなことを記憶しているようだった。
わたしも話に加わりたかったけど、タイミングを逃してしまい今からじゃもう無理だ。
でもふたりの話を聞いていて、微かな疑念が確信に変わりかけていた。
草野カズナリ君は、わたしの初恋のカズ君じゃないのか。
小さい頃、夕飯の買い物に連れて行ってもらった時、たまたま会ったカズ君と、カズ君のお母さん。
わたしの家とカズ君の家の買い物が終わるまで、ふたりでスーパーを探検して遊んでいた。
カズ君のお母さんに連れて行ってもらった市民プール。
小児用プールでカズ君と水を掛け合ってはしゃいだ。
秋のコスモス迷路で迷子になって泣いていたら、カズ君が見つけに来てくれた。
厳重に蓋をして閉じ込めていた過去があふれ出す。
たくさん覚えている、カズ君と遊んだ思い出。
誰に言っても理解されることがない、家族写真と同じくらいにわたしの大事な宝物。
もしかして、カズ君は消えてしまったのではなく、引っ越しただけなのかもしれない。
だけど……、そうだとしても、カズ君のお父さんとお母さんは——。
「幼稚園とか保育園は行ってなかったの? わたし、早森幼稚園にいたんだけど」
「……いや、そこに俺はいなかったな」
「……そっか」
声だけでも分かるぐらいに、松井さんが落胆している。
わたしも人知れず肩を落とした。
やっぱり、草野君とカズ君は別人かも。
「で、でもさ! ひょっとしたら昔どこかですれ違ってたかもしれないね」
「まあな。世間は意外と狭いもんだからな」
必死そうな松井さんと、楽しそうな草野君の笑い声。
残念がっているわたしの心情などお構いなしに、チャイムが6限目の始まりを教えた。
放課後。
昼休みに中断してしまった話だけでも読み終えてから帰ろうと、わたしは再び図書室に来ていた。
目当ての書物は借りて家に持って帰れるものだけど、透明なフィルムカバーがされているとはいえ今にも破れそうな古い本を持ち出すのは壊してしまわないかが心配だ。
自分で買ってでも読みたいというわけでもないので、図書室で読んでいるぐらいがちょうどいい。
図書室の司書さんは不在で、部屋に私以外の人はいない。
静かな室内には、遠くから剣道部の大声と竹刀のぶつかる音が聞こえてくる。
結局、一話だけ読んだら帰宅しようと思っていたのに、つい続きが気になって一冊読み終えてしまった。
本を棚に戻す時、次の巻が目に入ったが、これは明日にしようと心に決める。
読み出したら閉館時間まで止まらなくなってしまう。
大きな机がある読書スペースにカバンを取りに戻る数歩の間で、急に辺りが暗くなった。
図書室の電気は付いている。窓の外、空が黒い雲で覆われたのだ。
そこから地面に水滴が落ちるまでは早かった。瞬く間に地面の色は鈍く変色していく。
突然のにわか雨。
授業が終わってすぐ家へ帰らなかったことを今更ながらに後悔した。
……レインコート、自転車のかごに入れてたっけ?
雨足が強まり、稲光があってすぐに大きな木が割れるような轟音が響く。
これは様子を見てから帰った方がよさそうだ。
ぼんやりと外を眺めていると、1年4組の教室に入っていく人がいた。
ブルーのハーフパンツに、白のTシャツを着た男子だ。知らない人じゃない。遠目でもなんとなく見覚えのある姿だった。
もしかしてという直感に従い、図書室を出て教室へと急ぐ。
わたしが行くまで教室から動かないでと祈りながら、はやる気持ちのままに廊下を走り抜けた。
通り過ぎた正面玄関の片隅では、雨から避難してきた運動部員たちがストレッチをしている。
人が多くて騒がしかった玄関部分とは打って変わって静かな、1年の教室がある廊下にたどり着く。
「草野君」
1年4組の教室で目的の人物は、自分の机にかかった体操着入れから着替えを取り出していた。
よく見ると髪から服まで、全身がずぶ濡れだ。
わたしが教室に入ると、草野君は目を見開いて体をこちらに向けた。
「……何の用だ」
言いながら、一歩、また一歩と草野君は後退する。
背中が窓にあたった時、彼は忌々しげに唇をかんだ。
草野君の表情を目の当たりにし、わたしは教室の中へと進める足をとめた。
どうして怯えた顔をするんだろう。わたしのことがそんなに嫌いなのか。
でもふたりきりになれる機会なんて、後にも先にもこれが最後かもしれないし。
どうしても、これだけは確かめておきたい。
「あのさ、昼に話してたのを聞いたんだけど、草野君って以前は稲箸にいたことがあるんだよね」
「それがどうした」
「えっ、いや、どうってわけじゃないんだけど。わたし、生まれてからずっと稲箸に住んでるから……」
もしかしたら昔、わたしたちは会っているかもしれないと、……言いたかったんだ。
途中で口を閉じたのは、草野君の目つきがあまりにも鋭かったから。
憎しみのこもった険しい顔で睨みつけられて、頭の中から伝えたかった言葉たちが霧散した。
「……それで、お前が稲箸に住んでいることと今のおれと、どういう関係があるんだよ」
明らかなまでの拒絶だ。刺々しい物言いに、力なく首を横に振る。
変な期待をしたわたしが馬鹿だった。
記憶の中のカズ君は、こんな冷たい人じゃない。
「ごめん。なんでもない」
立ち尽くすわたしを凝視する草野君は、沈黙したまま動かない。
わたしのことが嫌いなら、さっさと部活に戻ればいいのに。
わたしも、図書室に置いてきたカバンを取りに戻ってさっさと帰ろう。
気まずくてとても「また明日」なんて言える雰囲気じゃない。
「あれー、サッカー部も練習中断したんだ」
声がしたので後ろを向くと、わたしが入ったドアから運動着姿の安達さんが教室に顔をのぞかせた。
彼女も髪をびしょびしょに濡れていて、首にタオルをかけている。
にしても草野君とふたりきりとか、嫌なところを見られてしまったな。
適当にあいさつをして逃げようと、わたしが教室にいることに驚いている安達さんに向かい足を踏み出す。
「ばっ、来るな!!」
耳をつく大声で草野君が叫んだ。
用事があってここに来たはずの安達さんは、教室に立ち入ろうとした足を硬直させる。わたしもとっさに草野君を振り返った。
草野君は目にも止まらぬ速さでわたしを追い抜かし、安達さんの手をつかむと教室からいなくなる。
戸惑いながらも引きずられていく安達さんの抗議の声は、草野君たちが教室から遠ざかるにつれ雨の音にかき消された。
ひとり取り残されたわたしはもはや呆然とするしかなく、混乱しすぎてしばらくその場から動くことができなかった。