7.大西タクマ
私が三谷さんたちに声をかけるタイミングを見計らっていると、すぐ近くにあるドアから男子生徒が入ってきた。
その人に気付かず、写真と三谷さんに意識を向けていた大塚さんが何気なく後ろに一歩下がる。次の瞬間、まっすぐ教室の中へと足を進めた彼と大塚さんの背中がぶつかった。
「きゃっ」
「おっと」
その人はバランスを崩した大塚さんの腕をとっさにつかみ、転ばないように支えた。
「悪い。大丈夫か?」
膝に力を入れ体勢を整えた大塚さんが男子生徒を見上げる。
「ご……、ごめんなさい! あっ、あの、本当にすみません。どうしよう、わたし、足踏んじゃって……」
驚愕、動揺、困惑、困窮——。
ぶつかった人の顔を確認した途端、大塚さんはうろたえて今にも泣き出しそうになってしまった。
三谷さんも目を見開いたまま固まっている。
「いや、俺は何ともないが……、そっちこそ足ひねったりとかはしてないか?」
真剣な面持ちで問われた大塚さんは、耳まで真っ赤にして勢いよく首を横に振った。
「いいえ! わたしは大丈夫でした!」
混乱しっぱなしの大塚さんに、彼も苦笑を禁じ得ないようだ。
「悪かったな。俺の不注意で」
そう言うと彼は本来の目的地であろう教室の奥へと行ってしまった。
それをなんとなく目で追っていると、ちょうど草野君の席のところで彼は停止する。用事があるのは草野君か。
意味もなくぼんやりと思っていたら、彼が半身で振り返った。男子生徒とわたしの視線が交錯する。——そんな表現では生ぬるい。
彼の目に捕われたのは一瞬。その一秒もしない間に、目を細めた彼が口の両端を吊り上げる。
息が止まり、心臓が大きく脈打った。
こちらの心当たりは当然ない。なのにどうしてだろう。わたしは危ない人に見つかってしまったと直感した。
血の気が引いて動けないでいるわたしを尻目に、男子生徒は何事もなかったかのように草野君へと向き直る。
「何か用ですか?」
「つれねえな。俺が顧問からわざわざ預かってきてやったってのに」
わたしがひとり呆然と時を止めている間も、周囲は当然時間を刻む。
草野君は面倒そうにしながらも、問題の彼から何かの紙を受け取っていた。
「名前書いて今日中に顧問に提出頼むわ」
「わかりました。ありがとうございます、わざわざ」
「おまっ、相変わらず可愛くねーなあ」
彼が明るく笑う。さっきとまるで別人だ。
「ちょっと、大西先輩に何やってんのよ」
「ごっ、ごめん。でもほんとカッコイイし、優しいよね。先輩に人気があるのも分かる気がする」
三谷さんたちの会話で、そうかあれが噂の大西先輩なのかと納得した。どおりでどこかで見たことがあるような気がしたわけだ。
金色に近い茶髪。背の高い彼の体つきは筋肉質とは言えないけれど適度に鍛えられている。いわゆる細マッチョだ。さっき間近で見た彼は、目、鼻、口……、と形のよいパーツをバランスよく配置した完璧な顔だった。
大塚さんがカッコイイと連呼するのも頷ける。
彼の容姿は完璧ゆえ、逆に作り物のように感じてしまうぐらいだった。
「へー、草野ってサッカー部に入るのか」
草野君の席の前に立つ男子が、大西先輩を気にしながらも告げる。
「まあな。中学でもやってたし」
「席が隣同士で部活も同じって、お前らどんなけ気が合うんだよ」
「運命ってやつか。いっそもう結婚しちまえよ!」
佐野君と草野君をからかうクラスメイトの言葉に、周囲も一緒になって笑う。
大西先輩の出現が原因か、教室内にいる人の数がさっきより増えた気がする。
みんなが浮足立って大西先輩に注目している。
格好いい。こんなに近くで見られるなんて運がいい。
やっぱそこらの男子と違うよね。モデルしてますって言われても納得しちゃうよ。
ひそひそとそこかしこから聞こえる羨望のささやき。
大西先輩はそんなもの気にも留めず、佐野君やクラスの男子に便乗し草野君をからかって遊ぶ。
わたし、は——。
ただ立ち尽くすだけの自分と周囲の開きすぎた温度差に居心地の悪さを覚える。疎外感が半端じゃない。
周りがどうであっても自分は自分。そんな確立した自尊心など微塵も持ち合わせていない。わたしが順応しきないこの環境下で、劣等感にさいなまれるのは必至だった。
これ以上惨めな思いをしたくない。
外の空気を吸いに行こうと半歩右足を後ろに下げるのと、それまでわたしに背を向けていた大西先輩が振り返ってこちらに顔を向けたのは、ほぼ同時だった。
彼の意識がわたしにあるなんて、自意識過剰も甚だしい。
だけど大西先輩はこちらに軽い足取りで近づいてくる。
ようやく正常に循環し出した全身の血液が、一気に足まで下った。
……どうしよう。わたしには霊感なんてないし、勘が働くほうじゃないのも自覚している。
他人の感情には疎いし、大西先輩が何を考えているのかなんて分かるわけがない。
それなのに、なぜか今回だけは断言できる。
今から起こることに全くいい予感がしない。
「きみってさ、この前俺のこと見てた子だよね?」
「……はい?」
大西先輩の質問に少しだけ希望がわいた。
「ほら、何日か前にグラウンドで俺らが練習してた時、外から眺めてたじゃん」
カナメたちとファーストフードに行った日のことだ。
あの時のことならわたしに確認を取るのはちょっと間違いだ。
ほら、近くにいる三谷さんと大塚さんが期待に目を輝かせてるよ。
「……ひょっとして、覚えてないとか?」
器用に眉をハの字しながら、恐る恐る大西先輩がうかがってくる。
注目が苦しい。否定と肯定、どちらが正解なのかすら考えていられない。
「いえ、心当たりはあります」
正直な返答に、知らぬ存ぜぬでこの場を流しきれない自分の弱さを垣間見た。
「やっぱりか! あん時思いっきり目があったから、すんげー印象に残ってたんだよな。あいさつがてらに手を振ったら普通に無視されるし。ぶっちゃけこんな経験はじめてだったよ」
「……はあ」
先ほどと打って変わって嬉しそうな大西先輩だけど……。
お願い気付いて。三谷さんの顔、すごく怖いことになってるから。
あの日グラウンドで彼と目を合わせて固まってしまった自分を殴りたくなる。
こんな目立つ人に目をつけられるなんて聞いてないよ。
「ん? あんまり嬉しくなさそうだね。もしかして俺って嫌われてたりするとか?」
こんな大衆の前でそれを聞いて来るか。
あんた自分が人気あるって自覚してるだろ。自分に信者が付いてるって分かってて言ってんのか。
「……いえ、そういうわけではなくて……。すみません……」
周囲の目がいたたまれなくてうつむいた。
学校中の人気者を苦手だなんて、クラスメイトの前で公言できるわけがないだろう。
わたしは無難なその他大勢に埋没していればいい存在だ。
——そう。望むべくは、大西先輩カッコイイ! とみんなでわいわいはしゃいでいるうちのひとりとカウントされるべきである。
どうしよう。これは本来あってはならない事態だ。
何も言えなくなったわたしに近づいたのは、席から立ち上がった佐野君だった。
腰を曲げて、わたしの顔をのぞきこみ首をかしげてくる。
「ひょっとして、照れてるのかな?」
違う。
相手がカナメだったら即座に出てくる言葉のはずが、喉につかえて声にならない。
教室内の視線はわたしに釘付け状態で、とにかく痛い。
恥ずかしさに耐えられず、うつむいたまま歯を食いしばった。
顔に血が上って行くのがよくわかる。耳がものすごく暑い。
「ははっ、赤くなって可愛いな! ヨシアキ、こんな純粋な子いじめんなよ」
ますます違う。
大西先輩の勘違いに、こいつ頭大丈夫かと心配したのはわたしだけか?
楽しそうな大西先輩の背中越しにいる、クラスメイトの女子たちが怖い。
横目でちらっと見える三谷さんの表情はもっと怖い。
そんな不満そうな顔で睨まれたって、こっちも不本意なんだ。できることなら代わってほしいよ。
「きみって面白いね。名前、なんていうの?」
え? これって教えないといけないやつか。
興味津々に大西先輩は首をかしげる。わたしの顔をのぞき込んだ切れ長の目が、微かに細められた。
うっと息がつまり、背中に悪寒が走り抜けた。
「……築山です」
早口に告げて、逃げるように顔をそらす。
整いすぎた大西先輩の作り物のような顔の中に、もうひとつの何かを感じたような気がした。
目の前で普通に喋っているはずなのに、完璧な容姿同様、楽しそうな態度そのものが嘘なんじゃないかと疑ってしまう。
「ふうん。下の名前は?」
ええー、それって言わなきゃ駄目かなあ。
「マリ、だよね。築山マリさん」
「へえ、マリちゃんか」
渋っていると、割り込んできた佐野君が勝手に大西先輩に言ってしまった。
教室内の空気が一段と悪くなった気がする。
お願いカナメ、パンぐらいいくらでも奢るから早く帰ってきてくれ。
「マリちゃんって、可愛い名前だな」
お世辞であったとしても、わたしを褒める行為はやめてほしい。
大西先輩がこちらに笑顔を向けるたび、わたしの平穏な学校生活が崩れ去るんだ。
いつの間にか佐野君の横には草野君が立っていた。険し面持ちの草野君が新鮮に思えてならない。
いくら心の中で毒を吐いたところで、現実のわたしはどうしようもない臆病者だ。
所詮彼らに委縮して黙り込むのがせいぜいで、否定の言葉なんてひとつも言えやしない。
「ねえマリちゃん」
頼むから、馴れ馴れしく呼ばないで。
「俺さあ、マリちゃんのこと結構気に入ったんだ」
嘘つけ。一体わたしのどこのどんな部分に興味を示せる要素があるというんだ。
心の中で突っ込んでいるだけでは、大西先輩の暴走は止まらない。
にこやかに世間話をする程度の話し方で、大衆を前にして彼はとんでもないことを言ってのけた。
「ちょっと俺ら、付き合ってみない?」
……は?
何言ってんのこの人。もしかして罰ゲームでもさせられてる最中なのか。
突拍子な大西先輩の告白。まじめに受け止められないわたしをよそに、教室中からは不満のこもった悲鳴が上がる。
不満の対象は、当然わたし。これは理不尽すぎる。
「さすがに、それはちょっと……」
引き気味になりながらもやんわりと断れば、大西先輩が驚いて軽く目を見開く。
「ひょっとして、俺のこと好きじゃないとか?」
「……い、いえ」
考えろ、自分。ここで「そういうわけじゃない」なんて発言したら大西先輩の思うつぼだ。
曖昧な返事では確実に流されて向こうのいいように持っていかれてしまう。
「……わたしなんか、先輩と付き合うなんておこがましいです。先輩にはもっとお似合いの女性がいるはずですから」
「ふーん。だから自分は身を引くって?」
ち、が、う。
さっきから思ってたけど、この人話が全く通じてない。
恐怖を通り越してものすごくイライラしてきた。
どうしてこんなに人の気持ちを察せられない男に人気があるんだ。
やっぱり顔か。人間顔なのか。
「身の丈に合った恋愛ってのが、わたしの理想の恋なんです。先輩は敷居が高すぎて、わたしにはとても手に届きそうにありません」
我ながらうまく言えたと思う。
大西先輩は驚いた顔のまま、佐野君とアイコンタクトを取る。
「じゃあさ、ヨシアキとかは恋愛対象に入るわけ?」
「……ご遠慮したいです。理由は、先輩と同じで」
一度勇気を出して口に出してしまえば、気持が吹っ切れて怖がることなく自然に会話が成立できた。
佐野君は苦笑するだけで、気分を害したようではない。
「ヨシアキも駄目か。カズナリはどうなんだ?」
「は?」
とばっちりを受けた草野君は眉間のしわを深くする。
警戒心むき出しで睨む草野君に、佐野君と同じ答えで返すのをなぜかためらってしまった。
「……駄目だと思います。ほら、同じクラスの人と付き合ったら、別れた後がものすごく気まずくなってしまいますので」
大西先輩が腹を抱えて大声で笑った。
「カズナリ、別れる前提でふられてやがんの!」
「こっちだって願い下げですよ」
舌打ちをして草野君は吐き捨てる。自分で言っておいてなんだけど、今日一番ぐさっときたかも。
大爆笑はしばらく続いた。
時計を確認すると、昼休み終了までまだ十分もある。拷問だ。早く5限目になってほしい。
「あー、笑った笑った。マリちゃんてすげえ面白い」
笑いすぎて出てきた涙を拭いながら、大西先輩はわたしを見下ろす。
「やっぱ俺のこと、真剣に考えてみてくれないか。俺も、マリちゃんに好きになってもらえるように頑張るからさ」
いいや頑張らなくていい。というか本当に、考えるまでもなく、わたしと先輩が付き合うなんてありえないからね。
何をどう言ったら諦めてもらえるんだ。
ひとり混乱するわたしを置いて、大西先輩はいつの間にか教室からいなくなっていた。
「あれ? マリさんどうしたの」
呆然と立ち尽くしていたわたしは教室に戻ったカナメの一言で正気に戻る。
「……遅かったね」
「うん。パンは美味しそうなのがもう売り切れてたから、たこ焼き屋さんに行ってた」
「ああ、そう」
だからこんなに遅かったのか。
高校のはす向かいにあるたこ焼き屋。タコの代わりにもちを入れた「もちチーズ」がおいしいのは知ってるけどね。
なにもこのタイミングで行かなくてもよかったんじゃないかなあ。
そもそも昼休みって学校の敷地外に出てよかったっけ。
「なんか疲れてる?」
「うん。ちょっと前までこの教室は戦場だったんだよ」
訳が分からないと言いたげに首をひねるカナメの、変わらない態度が唯一の救いだ。
わたしがことの経緯を愚痴る暇もなく、次の授業のチャイムは鳴った。
大西先輩が立ち去る前に言った言葉が不安を誘い、5限目の授業は全く身が入らなかった。
カナメは一日中座りっぱなしは腰が痛いとか何とかぬかして、6限目が始まる前に自主早退してしまう。
そして、放課後——。
「あんまり期待しないほうがいいよ。大西先輩は築山さんのことからかっただけだと思うから」
席を立って通学カバンを肩にかけようとしたわたしに、近づいてきた三谷さんが耳打ちした。
不満を隠しもしない彼女に焦りながらも、かろうじて笑みを顔に貼りつける。
「そんなの当然だよ。本気になるほうがどうかしてるって」
機嫌を損ねない言葉を必死に探す。
はははっとぎこちなく笑うわたしを一瞬鋭く睨んだ三谷さんは、それ以上何もいわずに教室から出て行った。
頭が真っ白になったわたしの耳に、廊下から大声で誰かとふざけあう三谷さんの声が聞こえてくる。
足がよろめいて、再び椅子へと腰を落とした。
大西先輩は、駄目だ。
彼がたとえどんなにいい人であっても、これ以上関わりを持ってはいけない。
クラスで平穏に過ごすためにも、女子の逆鱗に触れるようなまねは避けるべきだ。
ほんと、からかって遊んでいるだけなら他の人でお願いしたいと切実に思う。
わたしは彼が好きじゃない。
期待なんて、するわけがない。