1.人が消える
5月の大型連休が明けた初日。気分の乗らない体を動かし登校すると、教室でそれは起こった。
わたしが在籍するクラスは、1年4組。
新入生としてこの高校に入学してからまだ1カ月くらいしか経っていない。だけどさすがに自分のクラスを間違えるはずがない。
「34、35、……36、か」
教室に入って早々に感じた違和感の正体はすぐにわかった。
連休前と机の並びが少しばかり違う。さらには机の数がふたつなくなっているのだ。このクラスの人数は38人だったはずである。
ひとまずは教卓に張り付けてある座席表を確認した。
廊下から2列目にあったわたしの席は、窓側にまで移動している。ようやく見つけた自分の机にカバンを置いて、一息ついた。
いつものことながら気が滅入る。
「あれー。早いね」
絶対一番だと思ったのにとぼやきながら教室に入ったのは、体育委員の安達さんだ。長身の彼女の肌は日に焼けて黒い。耳が完全に見えるほど短い髪型がさっぱりとした印象を与えてくる。
「おはよう」
「おはよう。いつもこの時間には登校してるの?」
「まあね。安達さんこそ、今日は早いね」
「朝練のメニューが合宿の片付けだったから。終わったらそこで解散」
言いながら教室に入る安達さんの足元は、ローファーではなく部活用の運動靴だ。彼女が紺色のソックスとローファーを履いていた姿は入学式以来、見ていない。
「うわっ」
席に付いた安達さんが跳ね上がった。どうやらそこが自分の机じゃないと気づいたらしい。
「そういや連休前に席替えしたんだったね。すっかり忘れてたよ」
失敗を見られたのが恥ずかしいのか。苦笑しながらも安達さんは、わたしと同じく教卓の座席表で机の位置を確認する。
——わたしには、連休前にしたという席替の記憶がない。
「そういえば、今日栗原さんは来るの?」
「カナメならさぼり。休み明けでしんどいらしいよ」
「ふうん」
「……ん」
これにて会話は終了。入学以来お互いあまり関わったことがないため、上手く話が続かない。
気まずい空気になるのも嫌なので、わたしは机に伏せて寝たふりをする。
「……あのさあ」
今度は沈黙が苦しくなり、思い切って声をかけた。
「んー?」
「このクラスって、全員で何人いたっけ?」
「36人だったはずだけど。どうかしたの?」
「……なんでもない。おやすみ」
「おやすみー」
一方的に会話を切っても、安達さんは気分を害したようではなかった。
毎度のことながら、わたしはどうかしている。
この高校に入学して1年4組になった当初、確かにクラスの生徒数は38人だったはずなのだ。
だけど今日、机の数がふたつなくなっていて、このクラスから人が消えた。
この1か月間で、クラスメイト全員の名前を覚えたわけではない。だから誰がいなくなったかまではわからないけど……。
——違うか。
人が消えた前提で進んでいく自分の思考に待ったをかける。
いなくなったと思っているのはわたしだけだ。
わたし以外の人たちには、消えた人が最初から存在していなかったことになっている。さっきの安達さんのように。
クラスを構成する人数としても、記憶の片隅にすら残っていない。
人が消える。
消えた人は、存在そのものがなかったことにされている。
そんなことが当たり前に起こるのが、わたしの日常だった。
一番初めにわたしの前から消えたのは、わたしのお兄ちゃんだった。
わたしが6歳になった秋。
もうすぐ小学生なのだからと。両親がひとり部屋を用意してくれた数日後に、なぜかわたしはひとりっ子になってしまった。
あれからお兄ちゃんは、わたしの記憶にしか存在しない人となった。
……ううん。
本当はひとつだけ、わたし以外にもお兄ちゃんが世界にいたと証明する物はある。
あの日、枕の下に入れた家族写真は、今でも生徒手帳に挟んで大切に持ち歩いている。
結局わたしは10年前のお兄ちゃんが消えた次の日に、その写真を父と母に見せることができなかった。
見せた後、両親がどんな反応をするのかが怖くて。完全に否定されたら、わたしの中からお兄ちゃんが消えてしまいそうで嫌だった。
もし写真を見せて、写っているのはわたしと両親の3人だなんて言われたら……。
その可能性を否定できなくて、この写真はいまだ誰かに見せることができない。
お兄ちゃんが消えてから数年。
その間にわたしの前から人がいなくなることは何度もあった。
お兄ちゃんの次は、同じ幼稚園に通っていたカズ君だった。
カズ君もある日突然、最初から世界にいないものとされたのだ。
不可解な現象についていけず、「カズ君は今日お休みなの?」と幼稚園の先生に聞いた時には幽霊でも見ているのかとぎょっとされた。
人がいなくなるということを、周囲は知らない。自覚しているのはわたしだけ。
小学校のころには自分が普通じゃないというのが怖くなり、とにかく周囲に合わせることに必死になった。
結果、わたしのクラスメイトからの認識は常に「ちょっと変わってるけど普通の子」の範疇に留まれた。普通を意識した努力のたまものだ。
そして現在、高校に入学したクラス内でのわたしの評価も、それほど変わらないものだと思っている。
チャイムの音で顔を上げると、教室内はクラスメイトでごった返していた。
ショートホームルームの始まりの合図だったが、このクラスでは先生が来るのを全員が着席して待っているなどありえない。
皆が好き好きに過ごしていると、やがて先生が教室に入ってきた。
「席に着こうかー。ホームルーム始めるぞ」
担任の棚上先生の声で、ようやく生徒たちはゆっくりと自分の席へと移動しだす。
教壇に立つ先生は40代前半の中年のおじさんだけど、大学時代にアメリカンフットボールの選手だったらしく、肩幅が広てがっちりした体型だ。
目がつり上がっているため強面に見えるが、中身は気さくで面倒見のいい人だった。
わたしの中学からの友人で、同じクラスでもあるカナメのさぼり癖を放置しいないところからも、先生の人の良さがうかがえる。
当番の起立、気を付け、礼の号令に合わせて動作をして、席に座ると同時に教室全体を見渡した。
人がいない机は3つ。
ひとつはカナメだとして、あと2人は誰が来ていないのだろう。
……そして、一体誰がいなくなったのだろうか。
「出席とるぞー。安達」
「はい」
「今井」
「はーい」
先生の声に最後まで耳を傾けていれば、消えた人がわかった。
クラスにふたりいたはずの田中という苗字の人がひとりいなくなっている。
それと、わたしの後に呼ばれるはずだった徳田君が飛ばされていた。
先生も訂正しないし、生徒からも何の声も上がらないということはこのふたりで間違いない。
もっともわたしから出席番号が遠かったりしたら、こんなに早くは気付けなかったと思う。
田中さんはふたりいたけれど、両方ともあまり話したことがないからどっちの田中さんがいなくなったかまではわからない。
「築山あー、栗原はどうした?」
棚上先生に呼ばれてわたしは考えるのをやめた。
栗原はカナメの名字。
築山マリが、わたしの名前だ。
「5月になったら五月病にかかってしまったから、治るまでは学校を休むって昨日の夜にメールが来ました」
「そうか。五月病は俺が叩き直してやるからとりあえずは学校に来いと伝えておけ」
「了解しました。一字一句間違いなくお伝えさせていただきます」
「よし」
満足した先生は次の連絡事項に移った。
カナメとは中学からの付き合いだが、あいつは学校をよくサボる。
最初は中学の先生もカナメに注意していたが、2週間もたたないうちに諦めて何も言わなくなるのが常だった。
過去のことを思えば入学してから1か月、いまだにカナメのさぼり癖を矯正しようと躍起になっている棚上先生はやっぱり凄い人だと思う。
世話焼きでウザいなんて言ってたクラスメイトもいたけど、生徒に無関心な先生よりはずっといいよ。
「ああそれと、明日から三者懇談会が始まるから、月曜日にあたってるやつはしっかり時間を確認しておくこと。忘れて帰るんじゃないぞ」
先生が話し終えて、ホームルームは終わった。
1限目からの授業は休み明けということもあって、少し騒がしかった。
いつもより先生が声を張り上げる回数がこころもち多い。
体育や移動教室のない月曜日の時間割は、おしゃべりをするのにちょうどいいのだろう。
結局最終の6限目まで、終始締まらない授業は続いた。
最終のホームルームは手短に終わり、わたしは駐輪場へと向かう。
部活には入ってないし、放課後に遊ぶほど親しい友人もカナメ以外はまだ高校では出来ていない。
市街地にある学校の敷地を出て、ひたすら家を目指して自転車をこいだ。
わたしの住んでいるこの街は、市と定義されるぐらいには人口も多い。しかし繁華街を少し抜けると一面田畑が広がっている、はっきり言って田舎だ。
大型連休が田植えのピークだったようで、通学に使っている田んぼ道には、10センチほどの稲が規則正しく植わっていた。
この時期の用水路は水の勢いが強く、透明に澄んでいるため目を凝らすと魚が泳いているのが見える。
今年の4月から通い始めた通学路は、ほとんど田んぼしかないけれど季節は十分に感じられる道だった。
市の西側の端にある住宅地に、わたしの家はあった。
市内で一番栄えている場所は東側一帯で、駅や大型店舗に娯楽施設も、そちら側に密集している。そしてわたしの通う高校も。
西の端にある家から東の端の高校へ。普段スポーツなど何もしないわたしにとって、片道45分の自転車通学は結構な運動となっていた。
住宅街の一角にある、赤い屋根に白い外壁の2階建ての家がわたしの住まいだ。
築20年は経とうとしている家の外壁は風雨にさらされて所々が黄ばんでいた。
家の前のガレージには車が1台停まっている。
車を傷つけないように自転車をガレージの屋根の下に入れて、家に入る。
玄関の鍵は人がいるときはかかっていない。
「ただいまー」
靴を脱ぎながら家の中へと声を張り上げる。
「おかえりー」
リビングへ向かうと美子さんがちょうど台所から出てきた。
黒髪を頭の後ろでひとつくくりにした、スタイルのいい美人さんだ。いつも、それこそ何年も見ているが、この人からは老いというものを全く感じられない。
「おかえり。雨は降ってなかった?」
「うん。雲は出てきてるけど、降りそうって感じじゃないよ」
言いながらテーブルにカバンを置いて、弁当袋を取り出した。
「ありがとう。おいしかった」
「よかったわ」
弁当を受け取った美子さんは台所に戻っていく。
洗面所で手洗いを済ませてカバンを肩にかける。
リビングを出て階段を上がろうとしたとき、美子さんが声を掛けてきた。
「そういえば明日、三者懇談会があるから忘れて帰ってこないでね」
「あー、分かった。ちゃんと学校に残ってる」
そういや先生もそんなこと連絡してたな。今の今まで忘れていた。
「明日の朝、車で送りましょうか? そうしたら帰りも一緒に帰れるし」
「大丈夫。その後友達と遊ぶかもしれないし、自転車で行くよ。懇談の時間、確認するの忘れてたら後で言ってもらっていいかな」
「そう。わかったわ」
階段を上がってすぐ、右側のドアを開けてわたしは自分の部屋に入った。
2階は一番奥が美子さんと茂さんの寝室。手前右側がわたしの部屋、左側は——物置だ。
ハンガーに制服をかけて、部屋着に着替えてベッドに寝転ぶ。床に置いたカバンを手で探り中から生徒手帳を取り出した。
そこに挟んであるのは、好きな先輩やアイドルの写真などではない。そもそもわたしにそんな対象となる人はいない。
初恋だったカズ君は、世界からも消えてしまっているし……。
生徒手帳の表紙をめくったところにあるのは、4つに折られた古い写真。
折り目は白くひび割れた線になって、今にも破けそうだ。後ろからテープで補強しているが、写真の中心部分には穴が開いてしまっている。ボロボロな紙屑でも、これはわたしに残された、唯一の家族写真だ。
何百回、何千回と眺めているが、やはりお兄ちゃんはそこに写っていた。
わたしの周りは普通じゃない。
ある日突然、人の存在自体がなくなることが日常に起こっていても、みんなはそれに気付かない。
わたしだけが異変に気付けている。わたしは特別で、だけどわたしひとりが異変に気付いたところで、周りを、世界を変える力なんて何もない。
無情な世界に、無力なわたしはただ嘆くだけ……。
「はっ」
馬鹿馬鹿しくも都合のよい考え方だ。込み上げる笑いをかみ殺して頭まで布団を被る。
少し前まで、わたしは自分が何か特別な意味のあるものだと信じていた。
中二病上等。結構痛い考え方だと思うよ、今は。
結局のところ、世界はどこもおかしくない。
本当はお兄ちゃんもカズ君も——、田中君たちも最初からいない。存在してないって方がよっぽど筋が通る。
彼らは全部、わたしの頭が創り上げた妄想の人物だったら……。
おかしいのは世の中でも社会でも世界でもなく、わたしの脳みそだ。その一言で、遭遇している異常の全てに説明がついてしまう。……けど。
だけど——。
写真を挟み直した生徒手帳を握りしめた。
ここには確かにお兄ちゃんが写っている。
わたしと、わたしの本当の家族がここにいるのだ。
誰かに写真を確認してもらって、お兄ちゃんの存在が否定されたとき、わたしは自分のおかしさを認めなければいけない。
それが怖くて、そんな勇気がなくて、わたしはいまだにひとりでもがき続けるしかできないでいる。