0.プロローグ
お兄ちゃんが帰ってこない。
小学校入学を半年後に控えたある日のことだった。
長かった夏がようやく終わりの気配を見せ始め、昼間でも半袖の衣服だと肌寒い。日を追うごとに太陽が山に沈むのが早くなり、夕方の遊ぶ時間は短くなっていった、そんなころだったと記憶している。
2歳年上のお兄ちゃんが、小学校に行ったきりいつまでたっても帰ってこない。
いつもなら学校が終わればまずはすぐに帰宅して、遊びに行くにもそれから出ていくはずなのに。
とうとう日が沈み、外が暗くなってきた。
帰りの遅いお兄ちゃんを心配することなく、母は慌ただしそうに夕飯の支度を急ぐ。
「お兄ちゃん、遅いね」
「……んー?」
わたしが台所にいる母に言っても同意や兄への心配はなく、あいまいな返事しか帰ってこなかった。
そうこうしているうちに夜がきて、食卓には今日の夕飯のおかずが次々に並んでいく。
お箸や取り皿は、3人分。母がご飯を盛りつけたのは、わたしと父と母のぶんだけだった。
いつもわたしの向かいに座っていたお兄ちゃんの定位置にはご飯もおかずもない。
「お兄ちゃんのはないの?」
不思議に思って尋ねると母は驚いた顔をした。
「お兄ちゃんって誰のことかしら?」
聞き返された言葉に、わたしのほうも混乱した。
誰と言われても、お兄ちゃんはお兄ちゃんだ。
当たり前としてあったものを改めて問われ、どう伝えればよいのかわからず、「マリのお兄ちゃん」としか言えない。
状況が理解できていないのは母も同じだったようだが、やがて母は苦笑しながらもわたしの頭を撫でた。
「お兄ちゃんが欲しいの? マリちゃんひとりっ子だから寂しいのかな」
わたしの背中をさすりながらあやすように言われたのは今でも覚えている。
そうじゃないという意思を込めて、無言で首を横に振った。それがあの時のわたしの精一杯だった。
お兄ちゃんは元からいないものだとする母の空気に流されて、それ以上強く切り出せなかったのだ。
やがて父が帰宅して、3人でテーブルについた。
食事中、母がわたしの「お兄ちゃん」発言を父に告げる。
父は笑ってからかってきたが、わたしはそんな父の態度にいじけて早々に食事を済ませてしまった。
その後はさっさとお風呂に入り、話を聞いてくれない父から逃げるように2階にある自分の部屋に戻った。
ベッドへ倒れ込むようにしてうつ伏せになった時、机に置いてある一枚の写真に目がいった。
家の前で撮った家族写真だ。父と母の前には、わたしとお兄ちゃんが手をつないで並んでいる。
間違いない。やっぱりお兄ちゃんはちゃんといる。
弾かれたように身を起こし、部屋のドアまで移動した。
正面に見える、電気のついていない暗い部屋はお兄ちゃんの専用部屋だ。開いたドアからは廊下の明かりが差し込み、暗がりの中でもベッドや勉強机がと見える。それらは全てがわたしの記憶と一致していた。
明日起きたらすぐにでも、母にお兄ちゃんのことをもっとしっかり伝えないと。
このことを忘れないように写真立てから家族写真を取り出し、枕の下に入れてわたしは眠った。
もしかしたらその夜のうちに、わたしが母へお兄ちゃんのことを真剣に言っていれば、未来はほんの少しでも変わっていたのかもしれない。
次の日、母に起こされて自分の部屋から出ると、目の前のお兄ちゃんの部屋には物がなくなっていた。
机やベッドといった大きな家具や、壁に張り付けてあったサッカー選手のポスター、カレンダーもがされている。
どうして。——一体、誰が?
16歳になったわたしにもわからない疑問が、10年前のわたしに解けるはずもない。
急いで1階に行き、リビングの本棚にあるアルバムをめくった。
歯磨きもせずにアルバムを見だしたわたしに、母は不思議そうな顔をしているが気にしていられなかった。
なぜこんなことが起こっているのか。前に見た時は隙間なく貼られていたはずの写真は、どこのページも空白だらけになっている。
誰が剥がしたの? 写真はどこへ持っていったの?
母に聞いても首をかしげるばかりでどうにも話が通じない。
アルバムの必死にページをめくる。
どれだけ探しても、お兄ちゃんの写真は見つからなかった。