5.サリエリー・パチェード
大の大人の腕の長さ程もある分厚い壁、過剰に思えるほどの防衛機構が張り巡らされた施設にリシーは来ていた。
要厳重取扱資料室。億劫になるほどの検査と必要手続きを終え、ようやくその表札のかかった扉の前にたどり着く。
「資料丸八番、こちらですね」
監獄にあるような檻が張り巡らされた部屋の中で、くぼんだ瞳を持つ厳しい顔つきの老人が箱を一つ、部屋の奥から抱えてきて台の上に置いた。特別な材質でできた箱の蓋には、サリエリー・パチェードと人の名前が刻まれている。
「接触可能時間は五分です」
老人は手元の針の動かない懐中時計型魔具に、小さな丸い魔鉱の粒を入れる。五分きっかり動くだけの動力源だ。
「どうぞ」
動き始めた時計を台に置いた老人に促されて、リシーは箱を手に取る。刻まれた名前を少しだけ見つめ、蓋を開けた。
真っ先に見えたのはテカテカした茶色の布地の衣服だ。形状からおそらく上着だと推測できるものの、あの男のものと同じくここらで見られるような形のものではない。材質や形状が違っていても、その縫い目の、どこをとって見ても変わらない過剰なまでの整然さが二つの繋がりを確かに感じさせる。感じた自分の感覚が間違っていなかったことを確認しリシーは手に持ったそれを脇に退けた。
箱の底には細く青い荒紐で綴じられた小さな手帳があった。劣化して黄ばんだ紙にインクで滲んだ文字が書かれている。
リシーはそれを一枚、一枚とゆっくりめくっていった。平穏な日々の出来事。美味しかった食べ物。時にはちょっとした愚痴など。どれも書かれているのは他愛もない事柄ばかりだ。
しかし、あるところを境にそれらがぱったりと書かれなくなる。代わりに書かれるようになったのは判読不可能な文字列や数列、血や死などの不穏な言葉だ。
リシーの止まることがなかった手帳をめくる手が完全に止まる。
書かれていたのは無数の謝罪の言葉。知人や家族、あらゆる人へ向けた言葉。その中にはリシーの名もあった。
そして、まだまだ続くはずだった手帳の最後に大きく、たどたどしく、ひどく荒れた字でこう書いてあった。
───魔女が来る。私はもう、許されない。
「時間です」
老人の言葉にリシーは手を離し一歩下がった。広げられた箱の中身が、慎重に元あった場所に戻されていくのをただ黙って見つめる。
「こちらに名前の記入をお願いします」
箱を部屋の奥に仕舞い、戻ってきた老人が差し出した記録帳に記名する。
リシエリー・パチェード、奪われたかつての名前。静かな怒りを込めて、要らなくなった部分をリシーは黒く塗りつぶした。
「どうかお願い致します」
レイマン・パチェードは華美で豪奢な部屋の中央で跪いていた。
「面をあげなさい、レイマン」
相対するはその才を認められ、王の寵愛を受けし姫であり宰相としても君臨する麗人。彼女は端麗なその顔に到底似合わない皺を眉間につくり、レイマンに立ち上がるよう促した。
「貴方のその頼み事がどれだけ突拍子もないことなのか、わかってて言っているの?」
「存じております。同時に姪が追っているものの危険性と重大さも理解しているつもりです」
王宮の外で話すには機密性の高すぎる事柄であり、レイマンの姪であるリシーがお願いをするには身分が足りない。代わりにこの場にいることに不満はないが、やり手の宰相様を説得しなければいけないことを考えると胃に穴が開きそうだった。
「服の縫い目が同じだってだけで許可は出せないわよ」
「ええ。自分もそれだけならば、いくら可愛い姪の頼みと言えどここへは来ておりません」
姪が丸一日かけて用意した報告書を渡す。
「こちらは件の男の足に巻きついていた、小舟に関しての報告書です」
重石のようになっていたあの小舟の舳先の残骸を水底から引き揚げて調べたのだ。
「嵐で壊れた小舟の舳先がたまたま男の足に引っかかったと、救出当初は思っていたそうですが、水底でそれを見た時に不自然さを感じていたので再調査をしたと姪は言っておりました」
救出時、その不自然さに囚われて時間を食ったばかりに怪我をしたとも言っていたがそれはまた別の話である。
「破壊した残骸を引き揚げ確認したところ、その舳先がただ壊れたのではなく、何らかの方法で焼き切られていたのが分かりました」
破壊に際して使用した魔具の衝撃波では有り得ない、あまりに綺麗な断面と焦げがあったのだ。
「また、下流の方には流れ着いた残り半分の小舟の残骸が、上流では何かを小舟に載せる人影の姿が目撃されています」
黙ったまま報告書を読みながらレイマンの言葉に耳を傾けている彼女にもう一枚の報告書を渡す。
「こちらは私が部下に調べさせた廃屋の事件の報告書です」
あれだけ凄惨な状態にしたやり口や、その六名がどういった立場の者だったかは分からずじまいだが、それがどういう状態であるかだけは嫌でも分かった。目を通し終わったのを見てレイマンはさらにもう一枚紙を差し出す。
「そしてこちらはサリエリー・パチェードの事件の報告書の写しです」
「そちらは結構。読まなくてもよく覚えているよ」
サリエリー・パチェード。リシーの実母である彼女が、悲惨な状態の死体となって発見された事件。その犯人は未だに見つかっておらず、様々な思惑から王宮内でもタブーとなっていた。
「たしかに手口や状況、どれもよく似ているわ」
「私もそう思います。姪は溺れていたこの男が廃屋の事件の目撃者、あるいは関係者であると見ているようです。何か不都合があったために錨を足に巻き付け廃屋近くの上流から流され、途中で舟を焼き切り溺れさせられたのだと」
「少し飛躍しすぎでは?」
「かもしれません。ですがこの男が、一連の事件の少ない手がかりの一つになる可能性も捨てきれないと私は思っています」
熟考する彼女にレイマンは畳み掛ける。
「領主様が町を封鎖してから丸一日が経過しましたが、町の人間の不満は早くも出ています。解決しないことには強硬手段を取った手前、すぐには解除もできません。少しでも可能性があるのなら一考の余地はあるかと」
「六名もの軍人が犠牲になった以上、早まったとは責められないわね……」
彼女は深くため息をついた。
「許可を出すわ」
「ありがとうございます」
「ただし、あれは人の心を汲み取るだけではない非常に繊細なもの。取り扱いにはくれぐれも気をつけるよう言いつけておきなさい」
「かしこまりました」
一瞬間を置いて宰相は厳しい表情を浮かべてレイマンに聞く。
「そう言えば、あれは今どこで何をしているのかしら」
あれと呼ばれる人物には、すぐ心当たりがついた。レイマンのよく知っている人物だ。
「数日前から連絡がついておりません」
「そう」
沈黙が流れる。
「連絡がついたら報告なさい」
「はい、必ず」
彼女はそこで初めて、心配という感情を表情に出した。
「魔女を追う者同士……ぶつからなければいいけど」
「それは、避けられないと思います」
レイマンは諦めた様子で言う。
「もうどちらも止まりません」
首を突っ込ませない。時間を稼ぐ。そんな段階は気付けばとっくに過ぎていたのだ。
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