4.喋らない男
「いっ……!」
右腕に走る痛みに顔をしかめるリシーに、学生の頃からの十年来の友人であるロスリーは呆れた表情を浮かべた。
「まったく、向こう見ずなところはいつまでたっても変わらないものね」
「仕方ないでしょ、危ないとこだったんだから」
むくれて見せてもロスリーは取り合わず、包帯を巻く手を一切止めることなく言う。
「やり方はもっと色々あったでしょうに。他でもないあんたが、言っちゃ悪いけど水から人ひとり助けるぐらいで、こんな大怪我するなんて……」
そんなお小言にリシーは聞こえないふりをしてふいと横を向く。しかしすぐにこらえきれなくなったように向き直って身を乗り出した。
「そんなことより、彼の容態はどうなの?」
リシーの早すぎる変わり身にひとつ鼻で笑ってから、改まって真剣な表情になったロスリーは答える。
「左足に絡まった鎖による裂傷と、全身に軽い擦り傷と打撲が見られたわ。擦り傷と打撲はおそらく流された時のものかな。どれもそこまで大きな怪我ではないよ」
言い終わったロスリーがまだ何か言いたそうにしているのを見てどうしたのか尋ねると、彼女は難しい顔をして続きを話し始めた。
「あんたも知ってるでしょうけど、事故や事件に巻き込まれた患者さんたちが、恐怖体験などを経て心を閉ざしちゃうことがあるのよ」
「なるほど」とリシーが相槌をうったのにロスリーは頷いた。
「いまの今まで一言も喋ってくれてないわ」
「事情を少し聞きたかったけど」
「怪我自体はそこまで大きくないし、こういった症状は何かきっかけがあれば回復する場合もあるから、短時間なら許可を出せるわよ。この後すぐがいい?」
「うん、お願い」
最後の細々とした治療を受けながら少しだけ世間話をしてそろそろ行こうかという時にロスリーが口を開いた。
「そういえば、廃屋で起きた事件とやら。あんたがまた首を突っ込みそうだって聞いたけど」
リシーは驚いた表情を浮かべた。随分と耳が早い。
「レイマン様の部下が朝早くにこの治癒院に来てね。どこかの誰かさんの暴走馬車を追いかけさせられた時に枝で頬を切ったとか」
「何よそれ」
「治療ついでにあの叔父様が姪っ子に対して過保護すぎるだとか散々愚痴をこぼして、しっかり私からも釘を刺すよう言って帰ってった」
「聞くわけないのにね」と付け足して言うロスリーに複雑な顔をして渋々頷く。
「だけど、無茶だけはしないように」
「うん、ありがとう」
「まあどうしてもってなったらこの凄腕治癒士のロスリー様を頼りなさい」
おどけて言うロスリーにリシーは笑う。
「はいはい、頼りにしてますよ」
リシーが部屋に入るとベッドの上で男は背に枕をかませて座っていた。気配を感じたのか、閉じていた目が開かれる。
救助の時はあまり気にならなかったが、よくよく見ればここいらではあまり見ない顔だ。南方の方から貿易品を卸しにやってくる商人たちに似ている気もするが、男は彼らよりも少し色白で彫りもそこまで深くないように感じる。
「警備隊隊長のリシーです。事故に遭った経緯を聴取にきました。差し支えなければ、軽くで結構ですので教えて頂けると助かります」
極めて物腰柔くを意識して問いかけるが、男は茶色がかった黒の瞳をこちらに向けるばかりで、その口を動かす気配は全くない。
「お怪我の方は大丈夫ですか? もしもまだ痛むなど、何か不都合がありましたら担当の治癒士に直接申し付けてくださいね。彼女とは旧知の仲なんです。腕は保証します」
リシーの言葉に対して、その目や仕草からはなんの感情も読み取ることが出来ない。ロスリーは彼が心を閉ざしていると言っていたが、それが確かならこれは相当難しい状態だ。
今日のところは一旦引き上げるかと考えた一瞬の間を遮るように部屋の外から声がかけられ扉が開いた。
入ってきたのは治癒院に勤める顔見知りの助手で、治癒士見習いのライミーだ。その手には一組の衣服が抱えられていた。
「お取り込み中すみません。こちらは患者様が着ていた服なんですけど、見ての通りぼろぼろでして……。どうするかをロスリーさんが聞いて欲しいと」
その声を聞きながらリシーは視界の端で何かが動いたのに気づいた。振り返ると今までほとんど反応を見せなかった男が自分の衣服をじっと見つめているのが見えた。
「ちょっと貸して──」
それを手に取ったのはほんの軽い気持ちからだった。心を閉ざした男が唯一反応を見せたこの衣服があればなにか聞けるかもしれない。ただそれだけの理由だ。
「似てる……」
リシーの口から思わずついて出た小さな呟きにライミーが「どうしました?」と聞く。
「いや、なんでもないよ」
努めて平静を装い、リシーは左手で器用に衣服を広げ男に見せる。
「所々破れてるみたいですけどいかがしますか?」
大きな反応を男から得ることは出来なかった。
「それじゃあこの服は一度預かってしっかり保管させときますね。とりあえずは明日あたりに、代わりに新しく見繕ったものを持ってきます」
リシーは怪我をした右手をかばいながら省略した敬礼をする。
「また、お伺いします。ゆっくりお休み下さい」
部屋を出ると一緒に出てきたライミーが小声でリシーに囁く。
「この服珍しい生地使われてますよね」
「え?」
「あ、いや、さっきリシーさんがびっくりしてたのでこの生地に驚いたのかと」
「……うん。そうだね、たしかに珍しい生地だよね」
なんの生地だろうと衣服を広げて見ながら、遠ざかっていくライミーの背中を見送る。そんなリシーの胸中は少しの喜びと確かな緊張があった。
「やっと見つけたよ」
その呟きは誰にも聞かれていない。
「お母さん」
先程衣服を見せた時の男の目の奥に見え隠れしていた感情の動きを思い出し、リシーは確かな目的を持って歩を進めた。
誤字脱字はご報告ください。