1.望んで進め
「コスプレか……?」
人生何があるか分からない。チャンスは突然やってくるし、それは一見ピンチに見えることもある。
目の前にはチャンスとは到底思えない凄惨な光景が広がっていて、処理に困る程の情報量の出来事が起こっていた。
「何とか、言ってくれないか」
都心にこんな場所があったのか、そう疑問に思うほどのみすぼらしい時代がかった廃屋に、女がただ一人佇んでいる。
「俺は、その、大学生なんだ。今ちょうど大学から帰るとこで」
何を言っても、ただ黙ってこちらを見据えている。
「首を突っ込みたいわけじゃない、ないんだけど」
一刻も早く逃げ出したかった。だけどそれ以上に好奇心を掻き立てられていたから、喋りかけるの止められなかった。
「何かの撮影なのか?」
そうあって欲しかった。
「だって……そうだろ、こんなの有り得ないって。普通。コスプレみたいな格好してるし。それに、そんな──」
違うと頭でははっきりわかっていた。その女の身につけているものはおよそコスプレや映画の撮影衣装でも有り得ないほどに使い込まれている。
理解に及ばずともつけられた装飾品の一つ一つに実用性を感じた。無駄なく、ゴタゴタと、おそらく自身の生業に必要なものを無数に身につけているのだ。
「それに、そんな、人間がさ。こんなにバラバラなんて、普通有り得ないだろ」
思わず声が上擦る。
鉄臭く、すえた匂いが、汚物の腐臭と混ざって鼻をつんとさした。地面に無惨に転がるのは人間だったものたち。赤い粘着質な液溜まりがじわじわと廃屋の床を侵食していっていた。
どれもが紛れもなく本物、そう主張していた。
「一言でいいから、なんか説明してくれよ。頼むって」
理解を超えそうなこの非常事態に、自分でも何をしたいのか分からなくなりそうだった。
『人生、何があるか分からないよね。チャンスって突然だし。それがさ、ピンチみたいな顔してやってくるんだよ』
かつての友人は笑いながらそう言って、それを自分は同じように笑いながら聞いていた。
友人はそのチャンスをしっかり掴み取っていた。今ではまるっきり遠い存在だ。
『背中を押してくれてありがとう。本当にありがとね!』
感謝の言葉を笑いながら、妬みながら、聞いた。
同じだけのチャンスがありながら、それを逃した自分の背中をなんで誰も押してくれなかったのか。自分勝手なその気持ちが心の奥底でずっと燻っていた。
友人の言葉を信じるなら、こんな意味のわからない状況の話ではなかったはずだけれど、だから目の前のピンチは大きなチャンスに見えていた。
「おい!」
女は動き始めた。
興味をなくしたようにこちらの姿から視線を切り、懐から取り出した腕の長さほどの杖のようなものを一回転、円を描くように振り回す。
瞬間、眩しいほどの光を発し、体の浮くような突風が起きた。同時にこの場に留めていた全ての事象が離れていく感覚があった。唐突には薄れるはずのない好奇心とか執着といったものがみるみるなくなっていく、そんな感覚だ。
追わなければと思った。数秒後にはおそらく何も無かったかのように、なんの変哲もない路地裏の光景が現れて、自分は何事も無かったかのように明日からまた通常の生活を送る。そんなのは嫌だった。
だから足を一歩、眩い光の中に踏み出す。頭も体も踏み込んではいけないと強く警鐘を鳴らしていたが、構わず二歩目を踏み出した。
『良かったな』
ありがとうとしきりに言うかつての友人に発したその言葉に、嘘はひとつもなかったけれど、その裏には言葉にしたくもない感情がたくさん、本当にたくさん隠れていた。
自分のせいなのに。同じようにチャンスを掴んでいればよかったのに。
足を進めた。逃す訳には行かなかった。それが脅迫観念のような褒めれたものでなくとも、ただの日常を退屈に思うからこその好奇心だとしても、例えこの先後悔することがあったとしても。
これはチャンスに違いない、そう信じて。
だから男は最後の、愚かな一歩を踏み出した。
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