18ちく話「必殺のちくわ魔法」
俺たちの戦いはまだ終わっていなかった。
すぐに立ち上がり、大臣を追う。扉から逃げられるわけはなかったので、行き先はふたつしかない。
問題は、右の階段か、左の階段か。
考えている時間はなかった。
「二手に分かれよう。W班は俺と右に。それ以外は左の階段を上って。見つけたらすぐ知らせに来てくれ」
「「「了解!」」」
「マサヲ、一緒に来てくれ」
急いで姫の部屋に向かう。アイリスが単独で、一人で追ったというのは楽観がすぎる。人質のために連れていかれたと考えるのが建設的だろう。だがそれは、決して彼女の安全を保障するものではない。
頼む。無事でいてくれ。叶わない願いだろうが。
姫の部屋の扉を開けると、息を切らした大臣が、アイリスを羽交い絞めにして、首に短刀を突き付けていた。
アイリスはぐったりとしていて、抵抗もできないようだ。なされるがままになっていた。辛そうに顔を上げる。そのわき腹からは、切り傷によりかなりの量の出血をしている。
手当をしなければ、じきに死んでしまうだろう。
「近づくんじゃない」
大臣は冷たく言い放つ。
俺は無言で応じる。
代わりに、マサヲが代弁していた。
「……ふざけやがって」
「近づかなければ、なにもしない」
その言葉を聞きながら、自分が薄氷に立っていて、それが割れたような感覚があった。そこに沈むと、冬の海よりも寒く、自身の感触がすっと消えていった。
現実離れしている気分だ。すべてが遠くなってゆく。
視野が狭くなってゆく。
この感情は今までにあったものの延長にあった。
今までに感じた怒りよりも、さらに純度の高いもの。それが弾けたのだ。
「どこまでも腐った野郎だ!」
「なんとでも言え」
扉から続々とちくわ軍が入ってきては、言葉を失っている。いわば生き胆を握られているので、うかつには動けなかった。
マサヲに目配せをする。あの短刀だけでも吹き飛ばせないか、と。
彼は首を横に振った。おそらく、その衝撃で短刀はアイリスの喉に突き刺さることを案じてだろう。
拮抗したまま、大臣はじりじりと後ろに下がった。その先にあるのは窓だ。窓からの脱出を試みているのだ。五階だが、大臣ほどのフィジカルがあれば、簡単に逃げおおせるのだろう。
歯噛みする。
「そのまま見ていたまえ。私の勝ちだ」
手は尽くした。すべて手札は見せた。それでもなお、届かないのか。この状況はちくわ魔法の範疇ではない。所詮、この魔法は魔法を封じるためでしかない。文字通り首に手がかかった状態で、強引に覆せる手段ではないのだ。
頭を巡らせている間にも、大臣と俺の差は空いてゆく。一歩が遠い。
「そうかしら……私はそうは思いませんけれど」
軍勢がモーセを前にした紅海のように広がっている。その真ん中を通るのは、どよめきのさなかを、王のように通るのは──。
「だってあなた。必死ですもの」
瀟洒に、威厳を伴って、姫が現れた。
クスリと笑って口元を可憐に抑える。さも面白そうに。
なぜ姫がここに。マサヲも驚愕している。
俺たちは唖然としていた。
「ふふ。マサヲったら、あそこは子供のころ、よく遊んだ場所じゃない。帰り道も、ちゃあんと覚えてますわ」
「いや、姫、そういうことを聞きたいんじゃ……」
「城内は王族の管轄です。ましてや、身内の裏切りなど」
そう嘯く彼女の、夜の空よりも黒い目には意志の星が輝いていた。その迷いのなさは周りにも伝わり、おそらく王を想起させていた。この求心力こそが王の器なのだろう。
マサヲは尊いものを慈しむ、優しい眼差しを向けていた。
「さて大臣」
「姫か……隠れていれば良かったものを。お前は無力だ」
「今のあなたより? 笑えますわね。私でも倒せてしまいそうです」
挑発している。後ろ手に組んで微笑みながら、お前は敗者なのだと宣告している。
その手は微かに震えていた。
彼女は何かに賭けていた。
「ガキが……減らず口を」
「なら黙らせてごらんなさいな。できませんの? ハッキリ言います。あなたは負けました。もうおよしなさい」
ナイフを持つ手に力が籠る。アイリスの首から一筋の血が流れる。
俺は動かない。動けない。いつの間にか拳を握りしめすぎて爪が割れていた。
痛みはなかった。
怒りだけが増していった。
「わからんようだな……」
ナイフはアイリスの肉をゆっくりと裂き続け、出血はなおも激しくなっていった。
「これが最後ですわ。つまらないことはやめなさい」
大臣はもはや聞こえていないようで、吊り上がった目はどこを見ているのかはっきりせず、口の端からは涎が垂れていた。
俺はついこう言った。
「殺さないでくれ」
大臣の手は止まった。先ほどとはうって変わって無表情になり、俺を見た。
「殺してほしくないのか?」
「ああ」
「殺してほしくないんだな?」
「ああ」
彼は少し食い込んだナイフを引き抜いた。
「……クッ」
そして顔を地面に向けた。
表情こそ見えなかったが笑っていることは分かった。
「ハハハ! そうか! 殺してほしくないのか!」
腕を力なくぶら下げ、俯いたまま笑い声を強める大臣。
空気が張り詰めていた。
「それが聞けてよかった!」
顔を上げた大臣の表情は狂気じみていた。口角は吊り上がり、目は開ききっており、まるで悪魔のようだった。
ナイフを大きく振り上げ、振り下ろそうとした。
「マサヲ!」
姫が叫ぶと同時に、大臣のナイフが弾き飛んだ。
──その光景を見た瞬間、俺の中の何かが切れた。
「てめェ! ふざけんじゃねえ!」
なにもかもが真っ白の世界で、勝手に駆け出していた。
右手ごと握りつぶすように、蓄えた怒りを拳に閉じ込める。
地球を砕く勢いで右足を踏み込む。
大臣の鼻柱が見えた。
そこを目掛け、渾身の力で拳を振るった。
ぐしゃり。と鼻が折れたのか、そういう音がした。
大臣はアイリスを放し、倒れた。
「アイリス!」
俺は咄嗟に彼女を抱きとめた。
息は絶え絶えになり、肌が青白くなっていた。
「大丈夫か⁉」
「……リンタロー……」
開けた目からは、光が失われつつあった。
おびただしい血が、脇腹から下を赤黒く照らしていた。
「少し、寝る……」
アイリスは安心したのか、眠るようにまぶたを閉じた。
急がなければ。
「マサヲ! なんとかできないか⁉」
「今行く!」
アイリスを地面にそっと寝かせ、マサヲが治療にあたった。唱えているのは回復の魔法だろうか。傷口はみるみるうちにふさがった。
だが。
「血を流しすぎたか……」
アイリスは目を覚まさなかった。
俺はなにか、かけがえのないものを奪われたような喪失感に身を投じていた。
アイリスとは、もう、永遠に話せないのだろうか。
すべてが平坦になっていくような気がしていた。
勝利の歓声はなかった。深い悲しみの他に、なんの感情もなかった。
大臣を見た。
誰かが抑えつけていた。
だがそんなこと、もうどうでもよかった。
俺は、勝利と引き換えに、アイリスを失った。
がらんどうな心が瞳へ伝わり、あふれて、視界が万華鏡のように歪んだ。




