恋の入口
「このひと、恋の入口に立っている……」
最近、派遣社員として中途入社したバツイチ子持ちの同僚女性について話すとき、どこか言い訳めいた口調になる夫の態度から、直感的にそう感じた。
そもそも、特定の女性について話すことなんか今までなかったくせに、脇が甘いというか、あまりにも無邪気だ。
昔から、女のカンは鋭いというけれど、私のカンは特別だ。
私は、同調圧力が嫌いで、あえて場の空気を読み過ぎないよう、普段は力を抜いて生きている。
しかし、本気を出せば、長年の接客業務で鍛えたコミュニケーションスキルと、もともとの人の顔色を伺う性格が合わさり、相手の声の調子、顔色、仕草、書いたメッセージなどから、秘めた心や、言わんとしていることを読み取ることには長けているのだ。
探偵とか、信用調査会社に転職しようかな……そう思わなくもない。
それは冗談として、そんなスキルに頼らなくとも、言葉の端々に、彼女への関心と、仄かな好意を滲ませている、そんな夫の態度は、誰が見ても分かりやすい。
これで、うまく隠しているつもりなら、夫は相当な間抜けだと思うし、彼女への好意に無自覚なら、それはそれで面倒くさいなぁと思う。
しかし、これはまだ「恋」ではない。
あくまでも「恋の入口」なのだ。
まだ、引き返す余裕は十分ある。
◇
「前に話した、最近入ってきた派遣の女の子さ、あっ、女の子って言っても、もう三十くらいなんだけど、その子、今週の土曜日、うちの近くに引っ越して来るらしい」
「ふーーん。 そんなに近くに越してくるの?」
「いや、一駅先ではあるんだけど、俺と、同じ部署の男があと二人、当日手伝いに行くことになったんだ」
「ん? 何で? 引っ越し業者が大抵のことはやってくれるじゃない」
「いや、なるべく費用を抑えたいらしい」
「だからって、既婚の男の先輩の休日を平気で奪う?」
「嫌ないい方すんなよ。その子、離婚したばかりで男手もないだろ?
小さい子どももいて、作業が捗りそうもないって言うから、こっちから手伝いを申し出たんだよ」
「そりゃ大変だろうし、親切なことだと思うけど……」
「大変だと思うよ。まわりに頼れる人もいないらしいし」
「そう……その人キレイ?」
「はあ? 何で突然そんなこと。普通だよ。普通」
「ふうん」
「ん? 何だよ。おまえ、妬いてんのか?」
「はあ? 腹立つこと言わないでくれる?」
「だってなぁ」
「そもそもさ、その人何で離婚したの?」
「俺もあんまり詳しくは聞いてないけど、なんでも浮気が原因らしい」
「どっちの?」
「そりゃ旦那だよ。妊娠中に浮気されたらしいぜ」
「あーー、よく聞く話だね」
「そうだけどさ、気の毒だろ?」
「うん。まあ、そうだね」
「とにかくさ、土曜日、行ってくるから。高木や佐藤も来るから心配すんな!」
◇
昨日、同僚女性の引っ越し作業の手伝いに行ってきた夫は、いつにも増して饒舌だった。
「いやーー、疲れたよ! 佐藤と高木も今日は家で爆睡じゃないか?」
「あの人たちって独身よね?」
「ああ。まだ二十五、六で、若いしな」
「で、ちゃんと荷物は片付いたの?」
「ああ。何とかな。細々したものは、追々片付けるって言ってた」
「そうなんだ」
「元旦那の写真も見たぞ」
「へえーー」
「片付け中にたまたま写真が出てきてさ」
「どんなだった?」
「まあまあのイケメン」
「へーー」
「背も高いらしい。元サッカー部のエースで」
「ほう……」
「R高校で一緒だったらしいよ。付き合ったのは、卒業してだいぶ経ってかららしいけど」
「R高……サッカー部のエースで、背の高い、イケメン……」
「確か、お前もR高だったよな? 学年違うけど」
「その人、いくつだっけ?」
「確か、彼女より二つ上の先輩だとか言ってたから、お前の二つ下じゃないか?」
「!」
「知ってるヤツなのか?」
「いっ、いやいや。知らないよ」
「そうか。何でも今はK町で、呑兵衛とかいう居酒屋をやってるらしい」
「!!」
「どした?」
「うっ、ううん。何でもない」
「今度どんなやつか覗きに行ってみないか?」
「そっ、そんな悪趣味なこと止めなよ!」
「いいじゃん。結構、料理は美味いらしいぜ。酒の種類も豊富で」
「いやいや、そんなことしたら、同僚の彼女に嫌われちゃうよ!」
マズい……非常にマズいことになった。
その居酒屋は、私の元彼の店だった。
高校時代、年下の彼から告白されて、かなり長く付き合っていたものの、私が今の夫に心変わりして、こっぴどく振る形となってしまったのだ。
これ以上この件をつついては、やぶ蛇というもの。
夫の恋、黙って見守るしかないか……
どうか、入口で引き返してくれよーー!と、祈るしかない、私であった。
これは、フィクションです。