仲違い
駅ビル一階の喫茶店。平日夕方の中途半端な時間のせいか、お客さんはまばらだ。眺めていたパンフレットをテーブルに置くと、香里さんは視線を上げた。
「じゃあ、今週末ってことでいいかしら?」
「あ、はい。大丈夫です」
「ごめんなさいね、また私につき合わせちゃって」
「いえ……母がドタキャンしたせいですから。せっかくの千秋楽ですし」
あたしはコーヒーを一口飲んだ。
すっかり冷え切ってしまっているのに、まだ充分美味い。高いだけのことはあるのかも。
「蓉子さんは急なお仕事ですもの。残念だけど仕方がないわよ」
「そう言っていただけると助かります」
「いいのよ、そんなにかしこまらなくて。杏奈ちゃんには本当にお世話になっているから」
香里さんは柔らかく微笑む。紗花そっくりのまばゆい美貌に胸を衝かれてしまう。
「なあに?」
「あ、いえ……」
思わず目を逸らしてしまった。ここしばらく、あいつの笑顔を見ていない。というか――
「――しばらく会ってもいないんですって?」
「えっ? ああ……はい」
「実はね。この前、紗花に怒鳴られちゃってね」
「ええっ!? あいつが、香里さんを……?」
「ちょっと前までは毎日杏奈ちゃんと遊んでいたのに、ぱったり行かなくなったじゃない。私は心配して聞いていただけなのに、最後は『お母さんに関係ないでしょ、ほっといてよ!』ってすごい剣幕でね」
むしろ面白がっているような調子で香里さんは続ける。
「あんな紗花は初めてだったわ。私もびっくりしてね、慌てて蓉子さんに電話したのよ」
「マ……いえ、母にですか」
「ええ。私にとっては頼りがいのある先輩みたいな人ですもの!」
にっこりする香里さん。ママとこの人はよほど相性がよかったのか、紹介したあたしがびっくりするくらいに打ち解けてしまった。もはや親友と言ってもいいレベルである。
「でも蓉子さんには『紗ちゃんもそういう年頃なのよ、むしろ遅いくらいだからほっときなさい!』って笑い飛ばされちゃったわ」
「す、すみません……あたし達はお互い、ちょっと――意見の食い違いがあって」
我ながら歯切れの悪い言い回しだ。でも詳しいいきさつは香里さんには話せない。なによりあたし自身、仲違いのショックをまだ引きずっていたのだ。
□
あたしは紗花の背後から空戦を見守っていた。
紗花の零戦は高度5000mを飛んでいた。さらに高空から降下してくるP-51と赤文字で表示された機体は、アメリカの戦闘機〝マスタング〟だ。零戦は降下しつつロールで回避を試みるが、敵の弾幕は猛烈だった。たちまち零戦は被弾し、煙の尾を引きはじめる。
「――横に旋回するだけじゃダメだぞ」
肩越しにびくっと紗花の手が震えるのが見えた。
「で、でもこのままじゃ……」
「ちゃんと速度を見な。もう600km/h近く出てるっしょ」
零戦は飛び抜けた旋回力を誇るが、それは低中速域までだ。500km/h以上の高速域では零戦の舵は重くなり、曲がらない。逆にマスタングを含むアメリカ機は高速になるほどよく曲がるのだ。このタイミングで単純な旋回戦を挑めばあっさり内側に回り込まれ、敗北だ。かといって、これ以上降下で速度を乗せ続ければ空中分解だ。
「じゃあ、やっぱり右か左に旋回するしかないじゃん!」
「違う。右と左に旋回するんだよ。どっちかに曲がった後、回り込まれる前に逆方向へ切り返すんだ」
右、左、右……と方向を何度も変えながら急旋回を繰り返すマニューバ――シザースだ。ただ切り返しの際、どうしても相手の前を横切る形になってしまう。
「そのままだと撃たれる。軽く上昇か下降を混ぜて射線を切れ」
「わ、わかった」
零戦は幾度も射撃されたが、まだ致命傷には至らない。あたしは横目で紗花の様子を確認した。今回は割と集中できているみたいだ。考えすぎだったのかな。
「いいぞ、もうちょっと頑張れ。もうちょっとで……」
零戦とマスタングの速度差は縮まりつつあった。
急旋回を繰り返しても零戦は速度が落ちにくい。一方、マスタングはどんどん減速してしまう。シザースにつき合いすぎたのだ。
「――よし! ここからは零戦のステージだぞ」
「あっ、逃げた!」
不利を悟ったのか、マスタングは零戦と反対方向へ旋回、上昇に移る。紗花は零戦を急上昇させ、ループの頂点でくるりと翼を回した。そのままスロットル全開でマスタングを追う。
「ていっ!」
零戦は機首と両翼から一斉に射撃した。マスタングは炎を吹き出し、地表へ墜ちていった。撃墜だ。対戦も終了となり、リザルト画面が表示された。
「はー、やっと勝ち残れた……」
「バトルロワイヤル戦での初勝利だな。やったな!」
ぽんと肩を叩いてやると紗花は「ひゃうっ!」と妙な声をあげ、椅子から転がり落ちた。
「お、おい、大丈夫か?」
「だ、大丈夫、大丈夫だよ。ちょっと、びっくりしただけ」
紗花はへらへら笑いながら立ち上がった。目を逸らし、あたしが差し出した手を避けるようにして。
「あの……どうだった? わたし、上手くやれてたよね?」
落ち着きなくさまよう視線。黒い瞳が震えているのは、不安のせいか。
「今回はちゃんとできたでしょ? 大村が言う通りに、ちゃんとできてたよね……?」
「――できてたよ、ちゃんと」
「そっか……よかったぁ!」
安堵のため息を漏らす紗花。
ちょっと待て、いまか? 緊張を解くのがいまってことは、つまり――そうか。慣れないバトルロワイヤル戦のせいじゃなかったんだ。
こいつが気にしているのはあたしだ。
大村杏奈にどう思われるかが気がかりで仕方がないんだ。
注視していたのは敵機ではなく、あたしの反応。
紗花は友達をがっかりさせていないか、ずっと心配していたのだ。
愕然とするしかなかった。
そんな状態で楽しめるはずがない。いや、アジュコンが楽しいならそんな真似をする理由がない。
いつからだ?
いつからおまえ、あたしの顔色をうかがうようになっちまったんだよ。
(もしかして最初から……アジュコンをやるって言い出した時から、そうだった……?)
紗花の為と思い込み、脳天気にゲームに誘い、結果こいつを追い込んでいたのか。香里さんのことをあれこれ言う資格なんてなかったんだ。あたしも同じようなことを紗花にさせていたんだから。
「大村? どうしたの?」
何故そんな馬鹿な真似をするんだと責めても仕方がない。
恵美の言う通り、たぶん本人は自覚していないのだ。
「……なんでもないよ。それよりさ、紗花――」
どうにか笑顔を浮かべ、あたしは決意した。
もうこれ以上つき合わせちゃダメだ。本当に紗花がやりたいことをさせてあげなくちゃ意味がない。大丈夫、上手く説明すればいい。いつものようにさりげなく誘導してやればいい。できるはずだ、あたしの得意技なんだから。
それは、とんでもない思い上がりだった。




