価値観
「紗花さんは、学トラを繰り返し読んでいたんですよね?」
「ええ……」
「おば様にとっては後悔の種でも、紗花さんには大切なはずです。漫画を捨ててもいいかどうかは、本人に確認すべきじゃないでしょうか」
「うーん……でもねぇ、もう高校生なのよ? あの漫画さえなければあの子は……」
わざわざ寝た子を起すな――というのがおば様の本音なのだろう。この一件で紗花がどれだけ傷付いたか、わかっていないのだ。あたしもここは譲れない。
「大好きなものを捨てられたら、悲しいに決まっています。おば様も少しはそう思ったからこそ、本当に捨ててしまう前にあたしに相談してくださったんですよね?」
「……」
「隠した漫画を本棚に戻してみませんか? 紗花さんの反応を見ればどれだけ学トラが好きか、はっきりしますから」
「もし紗花がそんなにあの漫画を好きで大切にしているとしたら……私はどうすべきだと思うの?」
「もちろん、容認してあげて欲しいです」
「ごめんなさいね、悪いけど私は漫画がいいものだとは感じられないの。他にもっとマシなものがいくらでもあるでしょ?」
漫画の評価、めっちゃ低っ! 紗花と価値観が違いすぎるな。
でもそれはどうでもいいのだ。
「別に漫画自体を認める必要はありません。今回はたまたま漫画なだけですし」
「たまたま? ……どういう意味かしら?」
「認めてあげて欲しいのは、紗花さんの〝好き〟です。それがなんであれ、紗花さんがなにかを好きであることを許してあげてください」
おば様は驚きに目を見開く。
「なんであれって、対象に関係なく許せって言うの!?」
「はい。なにを好きになるかなんて、自分自身でもコントロールできません。責められたり、否定されたり、別のものを押しつけられても変えられるものじゃない」
あたしだってそうだ。
あの日、あの時まで想像もしなかった。突然降って来た感情が全身を染め上げ、すべてを支配してしまった。紗花に心を奪われてしまった。
「好きって、どうしようもないじゃないですか」
誰にだって覚えがあるはず。世間体とか理屈じゃない。気持ちに従うしかないってわかるはずだ。
「だから――おば様だけは認めてあげて欲しい。いつでも紗花さんの味方でいて欲しいんです!」
しばし黙したのち、おば様は嘆息した。
「紗花の味方は私だけではないみたいね、大村さん。まったく……あなた、それが言いたくて私をここへ連れて来たのね?」
「あははは、バレましたか」
「そりゃあね。確かに世の中には色々な好みがあるから……」
ぐるりと部屋を見渡すおば様。よし、もう一押しだ!
「だけど、紗花がそこまであの漫画をねぇ……?」
「面倒な提案をしてしまって申し訳ありません。ただ、おば様もせっかくあたしに相談してくださったのですし」
「ええ……わかったわ。いったん漫画を本棚に戻して、紗花の様子を見てみるわ」
「ありがとうございます!」
やった! 紗花の反応は劇的なものになるだろう。おば様は仕方なさそうに苦笑しているが、間違いなく驚くことになるはずだ。これでおかしくなっていた二人の関係も、いい方向へ動き出すかも知れない。あたしは嬉しくて仕方がなかった。
(てか、そもそも過干渉なんだよなー。いい歳した娘の友達付き合いや趣味なんてほっとけで済む話なんだが……)
他人のあたしが易々と踏み込めることではないだろうが……この調子だと漫画以外にもあれこれと口出ししているに違いない。
「紗花さんって一人っ子でしたよね?」
「え? ええ、そうよ」
ふむ、常に照準がばっちり紗花に合っているわけか。それなら――
「おば様。いえ、香里さん!」
「えっ!? は、はい?」
「香里さんにもきっと好きなものがありますよね。差し支えなければ、教えてもらえませんか?」
□
数日後、夕暮れに染まる駅のコンコースで紗花と出くわした。
「ええっ、大村じゃん! な、なんでいるの!?」
「あたしがいちゃ悪いかよ」
「ここ、わたしが降りる駅だよ。あんたは三つ前の駅だよね?」
「おまえの方こそ、なんでこの時間? 部活とかしてねーだろ」
「いや委員会があってさ。本屋にも寄ったし」
だから鉢合わせになっちまったのか。当面は内緒にしときたかったんだけど、仕方がない。
「おっ、学トラ最終巻、買ったのか?」
「うん! これで全部揃ったよ!!」
幸せオーラが全身から吹き出してやがる。めっちゃかわいい。
「そっか、よかったな。あたし、結局読み損ねているから今度貸してくれよ」
「もちろん、オッケーだよ! けどさぁ……なんでこうなったんだろ?」
約束通りに学トラは本棚に戻された。紗花にとってはまさに青天の霹靂だろう。
「さあ? おば様もやりすぎたと思ったんじゃね?」
「いいや、そんな人じゃないね! むしろ不気味というか、意味不明で怖い……深遠な陰謀の匂いを感じるよ」
「わけねーっしょ」
「大村はお母さんをよく知らないからそう言うんだよ。すぐ怒るしすぐ泣くんだから、あの人!」
「おまえこそ、また号泣したんだろ? 引くわー」
おば様によれば『漫画に気付くと本棚の前で立ちすくみ、私にすがりついて泣き出してしまった』そうだ。涙腺の弱さはおば様からの遺伝なんだろう。ただ、紗花は見た目は可憐だけど負けず嫌いでけっこう根性が太い。そこが母親との違いだ。
「う、うるさいな! わたしのことはどうでもいいの!」
「あーね」
「大村はここでなにしてるの? めっちゃお洒落してるし」
「どっかの王子様っぽいっしょ?」
「ごめん、ホストかなって思った……」
「ほっとけ。学校終わってから速攻で着替えて来たんだわ」
「今日は遊べないって言ってたくせに、なんだよもー。いや、ちょっと待って。あんたまさか――」
「紗花っ!」
「――へっ? お、お母さんっ!?」
ヒールを鳴らしてやって来たのは香里おば様だった。
「なんです、その言葉遣いは! いくらお友達相手でも失礼でしょ!」
「いいんですよ、香里さん。いい色のコートですね。とてもよくお似合いですよ」
「まあ、ありがとう! 杏奈ちゃんも一段と素敵よ」
「あ、杏奈ちゃん? 香里……さん?」
紗花は疑問符をいっぱい浮かべ、あたしとおば様の顔を見比べている。
「ちょうどいい時間ですね。行きましょうか」
「そうね、西口にタクシーを待たせてあるの。――紗花?」
「えっ! は、はい」
「私達はもう行くけど、あなたは変な場所に寄り道しないでね。暗くなる前に帰るのよ」
「うん……い、行ってらっしゃい?」
呆然としている紗花。後で追求されるだろうが……ま、いいや。
あたしは軽く手を振って、香里さんと歩き出した。




