後悔の種
「――はっ? 捨ててねぇの!?」
「え?」
ヤバ、思わず素が出てしまった。
「あ、ああ、すみません。学トラの単行本、捨ててないんですか?」
「とりあえず隠しただけよ。あの子がどう反応するか、わからなかったから」
おば様はため息をつく。
「あの漫画をね、買い与えてしまったのは私なのよ……」
まだ紗花が子供の頃、外出先でおば様とはぐれてしまった。慌てて探し回ってやっと見つけた時、紗花は本屋の店頭で漫画の小冊子を読んでいた。それは学トラ1巻の見本だったのだ。
「ちょっと予定があって急いでいたのよ。愚図られるよりはいいと思って、つい買ってしまったのね。まったく、どうしてそんなことをしてしまったのか……」
何故かおば様はひどく悔いているようだ。
「なにが問題なんでしょうか?」
「だって――私のせいで紗花に悪癖がついてしまった。あんな漫画に耽溺するようになってしまったのは、私のせいなのよ!」
(ええええっ、んなわけねーじゃんっ!)
「私は母親の影響力の強さをわかっていなかったのよ。もっと紗花の役に立つ、まともな本を与えるべきだった。でも買い与えてしまった手前、なかなか止められなくてね。本棚に増えていくあの漫画を見る度に悔やみ続けて……」
「……紗花さんがもともと漫画が好きだからってことは?」
「まさか! 紗花にそんな趣味はないわ。第一、それならもっと色々集めるでしょう。あの子から他の漫画が欲しいなんて話は、聞いたことがないもの」
言えば嫌な顔をされるから口に出せなかった。
逆に学トラは一応許されていると紗花は思っていたから、隠さなかっただけだろう。
「それで、高校進学後に漫画を隠したんですか。後悔の種を片付ける機会がやっと来たって」
おば様はうなづく。なんだよ、このかみ合わなさ。
学トラへの執着は、確かにおば様が買ってくれたからかも知れない。だが紗花の漫画好きは本人の根っこから来ているものだ。ほっといてもいずれ紗花はどんどん漫画を読みあさるようになっていたはずだ。
「やっと本人も納得してくれたみたいだから、もう本当に捨ててもいいかと思っているのだけど」
(してねーし。ぜんぜん、まったく、欠片も納得してないって! できるわけねーっしょっ!!)
紗花は香里おば様が好きだ。だからこそ、おば様が買ってくれた最初の漫画がどれだけ大事だったか――捨てられてしまったと思った時、どれだけのショックを受けたのか、容易に想像がつく。
でもあいつはおば様とぶつかりたくないから我慢した。揉めてメンタルの弱いお母さんを泣かせるよりはと、堪えたのだ。
「紗花はちょっといい子すぎて……正直、私には本音が見えないところがあるのよ。だから念の為、同じ年頃で仲良しの大村さんに相談した方がいいかなってね。どう思う? あの子も子供じゃないのだし、何度も読んだのだし、あの漫画はもう捨てても大丈夫よね?」
おば様の瞳にはすがりつくような色があった。この人はこの人で、暇さえあれば同じ漫画ばかり読み返す娘に不安を覚えていたのだろう。
「……よかった……」
「ええ! そうよね、いいわよね?」
「香里おば様っ!」
あたしは身を乗り出し、おば様の手を両手でつかんでいた。
「よかった! 今日、相談してくれて本当によかったです!! ありがとうございます!」
「えっ!? ええ、あの……」
「あっ、すみません。ついうれしくて!」
ぱっと手を離し、あたしは素早く考えをめぐらせた。
香里おば様は悪意のある人じゃない。心のねじくれた人でもない。世間が狭くて、理解がないだけなのだ。
「――あたしの家、すぐ近くなんです。お話の続きはそこでさせてくれませんか?」
□
「実質的にあたしの一人暮らしですから、どうぞお気遣いなく。ごちゃごちゃしてますけど」
玄関ドアを開くとおば様は軽く息を飲んだ。
「まあ……!」
初見だとたいていこうなる。それも当然だ。
ロードバイク、テニスラケット、スケートボード、コンパウンドボウ、ラジコン飛行機、フライロッド、サーフボード――玄関から廊下にはびっしりとモノがあふれていた。
「全部、父の趣味です。もうしまう場所がなくて、仕方ないからディスプレイしちゃってます」
さすがに床は多少空けておかないと生活ができない。必然的に棚を作って並べたり、フックを打って引っかけたり、ワイヤーでぶら下げるなど、壁や天井を活用せざるを得ないのだ。前に紗花が「お店みたい」と称したが、まさにそんな感じだ。
「他に倉庫があって、そっちにはここに入らないモノが置いてあります。オートバイやカヌーなんかの乗り物ですね」
「はぁ……凄いわね……」
居間はローテーブルとソファーといった当たり前の家具のほか、真空管アンプのオーディオ、ミニカーや時計が陳列されているコレクションボード、ホームシアターセットなどが詰め込まれている。
おば様は吹き抜けの壁からにょきにょきと生えているカラフルな突起物に目を止めた。
「これ、なにかしら? どこかで見たことがあるわ」
「ポルタリングのホールドです。この壁、クライミングウォールになっているんですよ」
「えっ、ここを登るの!?」
吹き抜けの天窓へ続くホールドの群れを見上げ、おば様は呆れ顔になっていた。
廊下や居間がこんな調子だから、物置やパパの部屋はいわずもがな。うーん、今さらだがこりゃ人を招待するような場所じゃないな。
「ご感想はいかがですか?」
「正直、びっくりしたわ。おもちゃ箱みたいねぇ!」
「父は飽きっぽい性格なんです。次々趣味を入れ替えてしまって」
「これじゃ、お掃除だって大変よね?」
「そうなんですよ! なにが面白いんだか理解できないものばかりだし、邪魔で仕方がないですね!」
あたしはおば様と笑い合った。
「でも捨てようとは思いません。ただの物ですけど、父の〝好き〟が詰まってますから」
自分の好きも他人の好きも大切に扱うこと。あたしはそれをパパから教わった。
まあ、他のことでは反面教師にしかならなかったけど。
「ちなみにあたしはゲームが好きなんです。ちょっとご覧になりませんか?」
パソコンを立ち上げ、アジュコンをプレイしてみせる。
「こ、このゲームでいつも遊んでいるの……!?」
「ええ。特に中学の頃は一日何時間もしてましたよ。高校受験もあって少し熱が冷めかけていたんですけど、最近またはまり始めてますね」
「はあ……そうなのねぇ……大村さんがねぇ」
おば様は半ばぽかんとしていた。まったく理解できないという顔だ。そういや紗花にも似合わねーとか言われたっけ。
「このゲーム、学校の友達にはウケが悪くて」
「ま、まあこれは……女の子向けのゲームではないわよね……?」
「ですよねー。戦いのゲームですし!」
ごく普通の反応だよな。あたしもプロレスとかはさっぱり興味が持てないし、仕方がない話だ。あたしのせいで紗花もアジュコンをやっていると知ったら、いい顔はしないかも。とりあえず黙っていた方がよさそうだ。
ゲームを終了させ、あたしはおば様に向き直った。さて、ここからが勝負だぞ。




