絶対善を発見しました
絶対的に正しいこと、つまり絶対善を定義してみました。
ここでいう「正しい」とは科学的、数学的正しさではなく、私たちの心に関する道徳的正しさを言います。
善を辞書で調べれば道徳的に正しい事、またそのような行為、とあります。
では正しいとは何でしょうか。辞書で引いてみれば「正しいとはあるべき姿があり、それと合致している様」と書いてあります。それでは「あるべき姿」とは何でしょうか? それは正しい根拠、理由です、多くの皆さんが正しいと認めるものです。例えば法律は皆さん正しいと考えていますので「私のやったことは法律に合致しているから正しいのだ」と言えます。このようにあるべき姿(みんなが正しいと認めるもの)に合致しているから、自分は正しいと言えるのです。自分一人が正しいと考えたことが正しいと言うことはできません。
それでは「絶対的に正しい」と言う為には「絶対的なあるべき姿」に合致していなければなりません。絶対的なあるべき姿とは多くの皆さんが絶対的に正しいと認めるものです。しかし皆さんが絶対的に正しいと認めるものなどあるのでしょうか?
さて、正しいが必要になるのは、何か問題が起きたからです。問題がないならば「正しい、正しくない」など必要はありません。それではいろいろ問題を考えてみて皆さんが絶対的に正しいと言えるものがあるかどうかをみてみましょう。
銃の所持問題においてアメリカでは銃の所持は正しいとされています。しかし日本では銃の所持は正しくないとされています。またあるイスラムの国ではブルカを被るのは正しく、ヨーロッパでは正しくないと禁止している国もあります。
日本国内の問題でも核保有は正しい、正しくないと議論されています。消費税も正しい、正しくないと言う両意見があります。憲法改正問題も、死刑の問題にも正しい、正しくないと両意見があります。このように考えてみれば「多くの皆さんが絶対的に正しいと認めるもの」は無いように感じます。
しかしいろんな問題をよく精査してみれば「みんなの為」である事は共通しているのです。あらゆる問題はみんなの為、みんなの安寧秩序の為、国民の為なのです。答えは違っていれどもすべての問題はみんなの為、社会の安寧秩序の為に在るのです。
銃がアメリカで許可されているのはそれがアメリカ国民の安寧秩序の為だからです。あの広いアメリカで安全を確保するためにはどうしても銃が必要だから銃の所持は認められているのです。日本で銃の所持が認められないのは日本が安全な国だからです、銃の所持はしない方が日本国民の為だからです。
また消費税を上げるのが正しいと言うのもそうしなければ国民の為、国民の幸せの為にならないと思うからです。また反対に消費税を上げるのは正しくないと考えるのも国民が生活に困ると考えているからです。このようにあらゆる問題は意見の違いは在れども「みんなの為、社会の安寧秩序、みんなの幸せ、つまり公の為」ということだけは全て共通しているのです。
あらゆる社会的問題に共通しているものが「みんなの為」なのです。例外はありません、絶対です(もし、私が間違っていると言うならば「社会の安寧秩序の為、公の為」でない問題を何か示してください)。
ですから絶対的なあるべき姿は「公の為」ということになります。
絶対的に正しいことは絶対的なあるべき姿に合致していること、ですから絶対的に正しいことは「公の為」ということになります。
また道徳的に正しいことを善と言いますから、絶対善は「公の為」ということが道理的、論理的に導かれました。
また公とは問題により決まります。イノシシが暴れて困ると言う問題はそれに関係している村の人たちが公となります。また消費税などの問題は日本国民が公になります。日本の消費税に対して他国がこうすべきと干渉することはできません。このように公とは問題によって決まります。
皆さんは絶対的に正しいこと、つまり絶対善などないと考えられていたと思いますが、社会的問題に関しての絶対善は「公の為」なのです。
絶対的に正しいとは「社会の安寧秩序、みんなの幸せ、つまり公の為」に道理的、論理的に合致していることなのです。
以上が私が絶対善を定義した説明です。哲学は素人なもので、何かおかしなところがあればご教授ください。
詳しくは下記のHPをご覧ください。
https://ameblo.jp/shinwood/entry-12277885699.html