天国
天川汐衣奈の人生は35歳を迎える前に終わったようだ。
目の前の光景を呆然と眺めながら、どこか諦めに似た感情が私の中に湧く。
眼下に広がる広大な森、眼前から流れ落ちる水はその高さ故に地上に届く前に霧散し、森に虹を掛けている。
私がつい先程までいたのは落差10メートル程の滝の裏側、それが今は600メートルはありそうな崖の上。
ここは天国に違いない。
私は、極々普通の田舎のOLだった。
いや、普通と言うには少々地味で、目立たない存在ではあったかもしれない。
むしろ、一般的なOLが、恋愛を謳歌している人達の事であるなら、私は普通とは言いえない、のかも・・・。
・・・・・・コホン。
まぁ、それは置いておくとして。
あと2つ、私には一般的でない部分がある。
一つは、幼くして両親を事故で無くしていること。
まぁ、そんな人はゴロゴロと、とまでいかなくとも世界には何人も居るのだろう。
幸い育ててくれた祖父は神社の宮司をしていて、厳しくも、とても優しい人だったから、不幸とは感じていないけどね。
そして、あともう一つ。私が極力地味で目立たない様に生きている理由。それは・・・まぁ、今は説明を省こう。
私は寿退職する10歳年下の後輩の退職手続きを、いつも通り淡々と恙無く終え、いつものように17時きっかりに仕事を終えて、地味なグレーのスーツのままお気に入りの場所へ向かった。
祖父の神社の裏手にある竜神滝。裏見の滝であるその裏側に立つと、どうにもならない不安から少しだけ逃避出来る気がする。
――――――私はこのまま、一生一人で生きていくんだろうか・・・。
冷たい四月の水飛沫は、気分がスッと引き締まってなかなか心地いい。
もやもやした気分が少しだけ晴れた気がして、そっと息を吐く。
しかし、今日は何かが違っていた。
いつもは気にも留めない滝壺が妙に気になり、じっと眼を凝らす。そう深くは無い筈なのに、とても暗く、不気味な感じがする。
濡れた身体がブルッと震え、急に恐怖が湧きあがる。
―――嫌な感じがする―――
急いでその場を離れようと足を踏み出した瞬間、滝壺から無数の黒い影のような腕が何本も伸びてきて私を捉える。
「なにッ!」
逃げようにも既に傾き、滝壷へと落下している自分の身体はどうする事も出来ない。
―――ゴボゴボゴボッ―――
水の中に落ちてなお、黒い腕は私を離す事なく更に深く、水底へと引き込んでいく。
―――何コレ?滝の怨霊!?・・・助けて―――
昔祖父が言っていた「お前は竜神様に愛されてる」って。
だったら助けてよ!竜神滝で死んだら、加護も何もあったものじゃない!
そう心の中で叫んだ瞬間、身動きの取れなかった身体に自由が戻ってくる。
「プハッ!ッッッゴホッゴホッ」
水底から光の見える方へと必死で泳ぎやっと辿り着いた場所、そこがまさか天国だなんて、無慈悲にも程がある。
・・・でもまぁ、地獄に引きずり込まれなかっただけマシかも。
目に映る雄大過ぎる景色を前に、死を嘆く気にもなれない。
それにしても、ここはどんな場所なんだろう?
よく見れば自分が立っているのは小さな泉の中だった。泉の淵が崖になっていて、そこから溢れ出た水が崖下へと流れ落ちている。
「リゾートホテルのプールみたい」
思わず漏れた呟きは、誰に届くわけでも無い。
なんとなく不安にかられ、何かしなければ、という気分になる。
でも、天国では何をすればいいんだろう?神様や天使は見当たらないし、服や靴はビチョビチョで気持ち悪い上に、滝つぼへ落ちた時にでもぶつけたのか、膝がズキズキと痛む。
死んでも怪我したら痛いなんて、なんか納得いかない。
崖とは反対側の泉の淵へ移動し、傷の度合いを確認しようと腰を下ろして膝を覗き込む。
なんか、妙に見ずらい気が・・・しかも、折り曲げた足が胸を圧迫していつもより苦しい。
――――――――――――え?
「・・・胸が大っきくなってる」
元々、年齢からすれば妥当、もしくはちょっと大きめではあったものの、こんな少年漫画のヒロインかって程のモノでは無かった。
濡れて重くなった大きな斜め掛けのバッグを下ろし、スーツのジャケットを脱ぐと、ワイシャツのボタンが今にもはじけ飛びそうだ。
というか、三つ目のボタンまでが既にはち切れて、見事な谷間が覗いている。
しかも、心なしか肌艶も生前より良いような・・・。
色白の肌に薄っすらと赤みが差し、滑らかそうな鎖骨には青みを帯びた艶やかな黒髪が張り付いている。
これ、私の身体じゃない。
慌ててバッグから15㎝ほどの鏡を取り出して確認する。
うん?・・・私・・・だよね?
鏡に映っているのは、自分の顔。でも、見慣れた自分の顔とは明らかに違う。
ベースは確かに自分だ。でも、かなり若い。見た感じ高校生頃の自分だ。
しかも、全体的に・・・その、自分で言うのもなんだけど・・・。
可愛くなってる?
どこがどう、と言われると説明しづらいのだけれど、今まで中の中、『どこにでも居そうな平凡な顔』だった自分のレベルが全体的に底上げされて、華が出た様な気がする。
私であって、私で無い、そんな感じ。
「これも天国効果・・・なの?」
別に生前そこまで容姿を気にしていた訳ではないのだけれど・・・まぁ、嬉しくない、とは言わない。
ひとしきり自分の姿を確認し終えて、今度こそ膝の様子を診る為に再び腰を下ろして体育座りをする。
膝は擦りむけて血が滲んでいたけど、特にひどい怪我では無さそうだ。
それにしても・・・胸が大きいって結構邪魔だな。
――――ん?
しかも、胸の谷間がゴロゴロする。
手を入れて探ると、何かが挟まっていたみたいだ。
「鱗?」
それはとても大きな、青く美しい鱗だった。
その鱗からはなんだか不思議な力を感じる・・・ような気がする。
やっぱり天国に来られたのは竜神様のお陰なのかもしれない。
私は、その鱗を丁寧にハンカチに包み、バッグの中にしまい、濡れて気持ち悪い靴と靴下、それにジャケットと一緒に日当たりの良い岩の上に置いておく。
さて、これからどうしよう?
自分の置かれている状況が全く分からない今、何をどうすればいいのか分からないので、取りあえずこの辺りを散策してみる事にした。
辺りを見回すと、泉を囲むようにして生い茂る木々の間からキラキラと何かが光っている。
泉から少しだけ木々の中を進むと、光の正体が群生する花の輝きだったと判る。
その花は意外なほど大きく、水晶で出来ているかの様に木漏れ日を浴びてキラキラと虹色の輝きを返し、けれど花弁はシフォンの様に薄くふわりと風になびいている。
すごく、綺麗。
吸い寄せられる、という表現があるけれど正にそれだった。
私は花の前に座り込み、その花の輝きに目を奪われる。
そして、その中に大小2つの蕾がある事に気が付く。
一つはまだ固く閉ざされ輝きもなかったけれど、もう一つのバレーボールぐらいの大きさの蕾は、花弁が綻び一際強い輝きを放っている。
天国の植物であろうそれに、そんな簡単に触れるのはどうかと一瞬考えが過るものの、私はその蕾に触れてみたいという欲求に勝てなかった。
両手で包むように触れた蕾は、綻びかけた花弁が本物のシフォンの様にスルスルとした手触りが心地よかった。その感触を楽しんでいると、その蕾の輝きが一際強くなり、光を放ってその花弁を開花させていく。
すると、眩しさに驚いて引っ込めていた腕の中、正確には膝の上に温かな存在がポスンと収まる。
―――男の子?
ミントグリーンの髪に金色の瞳をしたその男の子は、おそらく5歳くらい。膝の上からじっと私を見上げてくる。
人間離れした髪色と愛らしい容姿、それと背中に生えた薄い羽の様なものが、この子が天国の住人である事を推察させる。
妖精みたいな羽、天使も本当はこんな感じなんだ。
実際見た事ある人なんて生きてないんだから、多少の差異は仕方ないよね。
私がしげしげと観察していると、その男の子がギュッと私にしがみ付き、嬉しそうな声を上げる。
「ようやく会えたな!オレの相棒!待ちくたびれて暇死するとこだったぞ」
グリグリと胸に顔を擦りつけてくる感触に、どこか子供らしからぬ如何わしさを感じてベリッと剥がすと、「チッ」と更に子供らしからぬ反応が返ってくる。
「君は・・・天使?」
今の態度から天使では無さそう・・・と思いながらも、他に天国に居そうな人物に心当たりが無かったので、一応そう聞いてみる。
「天使ぃ?まぁ、天使の如く愛らしい姿をしてるのは認めるがな。お前が俺を呼び出したんだろう?錬金術師のパートナー妖精として。しかし俺みたいな高位の妖精を呼び出せるなんて、お前なかなか・・・」
錬金術師?妖精?
彼はまだ喋り続けていたけど、理解が全然追いつかず、続く話が全く頭に入ってこない。
「おい、聞いてるか?」
「ごめん。ちょっと・・・何言ってるか分からない」
「はぁ?お前、錬金術師になりたくて妖精の卵に触れたんじゃないのか?」
「妖精の卵って・・・もしかしてあの綺麗な花の事?」
「当たり前だろう?・・・まさかそんな事も知らないで俺を呼び出したっていうのか?」
「なんか・・・ごめんなさい?」
「なんだその疑問符のついた謝り方は!ちょっとそこ座れ、俺が一から教えてやる」
見た目5歳児に正座で説教されるとか、結構凹むんですが・・・。
しかももう座ってるし、とか言ったら面倒な事になりそうなので、敢えて口には出さない。
「まずはそうだな・・・自己紹介からいこう。名前は?」
「天川汐衣奈です」
「アマカワ?変わった名前だな、しかも呼びづらい」
―――失礼な。
「名前はシイナだよ。シーナならそんなに呼びづらく無いでしょ?」
「シーナか、分かった。それならシーナ、お前は何が知りたい?」
「何がって・・・何をどう聞けばいいのかすら、よく分からないんだけど。取り敢えず、貴方の名前も教えてくれる?」
人に名前を聞いておいて自分は名乗らないなんて、と言いたい所なんだけど、見た目5歳児だと怒り難い。
「オレ?オレは妖精だ。名前なんてものは無い。強いて言うなら、オーベロン級の妖精、その1人って事だけだ・・・言っておくが、これも常識の範囲内だからな?」
そんな常識、生きてるうちには教えて貰ってません!




