プロローグ 3
銀座での数年間は、それまでの次郎の価値観を大きく変えた。
店を訪れる紳士たちは誰も彼も一流ばかりで、滲み出る生活水準の高さと心の余裕、洗練された所作に次郎は強い憧れを抱いた。
“そうだ、俺は東京に出てきて、こんな男になりたかったんだ”
田舎でお山の大将然として威圧的な猛々しい父や兄。女遊びが激しいところはもしかしたら血筋かもしれないが、根っからの亭主関白の気風が、線が細く色白な次郎の性には合わなかった。
質とセンスの良いスーツを着こなし、銀座の街を颯爽と歩く。いつか浜辺を凛と歩む母の後ろ姿を思い出させるそれは、次郎の求めているものだった。
一流テーラー・木原の息子は次郎の見た目をいたく気に入ると同時に、地方出身なのに銀座育ちの自分よりもセンスの良い次郎の才能にひどく嫉妬していた。
執着にも似た息子の干渉は日に日にエスカレートし、次郎は木原に惜しまれながらもテーラーを去った。
「痩せていて腕力もなく、学も金もない自分には価値がない」とそれまで自分に言い聞かせてきた次郎だったが、思い切ってアパレルの通販ショップ会社を立ち上げ、これが大きく当たった。
若い世代を中心に話題となり、人気モデルの起用で更に知名度が上がり、今では全世代対応の有名アパレル通販ショップへと成長した。勿論競合も多く競争の激しい世界ではあるが、自ら会社を興し、こうして実家の支援などなくとも好きな仕事に打ち込み、会社を更に大きくする楽しさは、次郎を夢中にさせた。
仕事に夢中になっている間に、あっという間に20代、30代は過ぎていった。
「それにしても、40なんてあっという間だよね。ジロウちゃんに会ったのもかれこれ10年前とかでしょ?いやぁ、早いよね」
大手メンズファッション誌の編集長の香山が、首元の蝶ネクタイの位置を整えながら笑う。
今日は金曜日の夜。焼き鳥を片手に、アラフォー・アラフィフの男飲みはしっとりと盛り上がっている。ここは麻布十番。業界人や大御所が訪れる美食の街は肉料理が有名で、焼き鳥もかなり有名だ。
この辺りのエリアでは、グルメサイトでもトップ3位常連の名店。雑居ビルの中に佇むこの店は、近年のブームでよく見る写真撮影お断りの、格式高い落ち着いた店。金額もさることながら、木でできた店の看板も重厚感があり、一見お断りの雰囲気は来る客の格を選別する。
「若い女の子達はまだ早くて連れてこれないよね。オジサンの余裕を見せたいところではあるけど」と、香山編集長は冗談めかして小声で笑った。
「香山さんには本当にお世話になってますよ。当時どこの馬の骨かもわからないようなうちの会社の特集を組んでくれて…一流誌に載せてもらうということは、こういう新興の会社にとっては有り難いんですから」
「いやぁ、ジロウちゃんは特別だよ。見た目がいい、センスがいいっていうのもあるけどね。あの頃の野心がバンバン溢れ出てる感じと射抜くような強い視線は忘れられないよ。モデルをお願いしたかったくらいだしね。今は…あの頃のイケイケのジロウちゃんは少し影を潜めたけど、経営者にはああいうオーラ大事だから。僕も業界長いからね、将来大物になるかどうかはわかるんだよ。それもビジネスだからね。
僕はビジネスをやって、それで僕の読み通り君が大物になっただけだよ。それはうちの雑誌の為でもあったんだよ」
「本当に光栄ですよ。香山さんにそんな風におっしゃっていただけるなんて」
次郎は頭を下げた。香山は10年前に知り合った大物編集長だ。次郎より15歳ほど年上で、当時から業界ではかなり有名だった。低迷したメンズファッション誌を次々と甦らせ、島英社を業界の雄まで大復活させたのだ。