前編
「マリー、この方がお前の婚約者、ウィルフレッド殿下だ」
光を受けて輝く絹のように滑らかなプラチナの髪を見た瞬間、私は思い出した。
マリエル・メレバーというライバルを蹴落として、男爵令嬢のリリー・スカーレットと結ばれる王太子ウィルフレッド・トランスディア。その二人が幸せそうに微笑みあう、あの至高のスチルを!
スマホで撮影して、ロック画面の待ち受けにしていた程に気に入っていたあの二次元の世界が、今、目の前に!
「マリー、挨拶」
「ハッ! ……失礼いたしました。マリエル・メレバーと申します」
惚けてしまったしまったが、六歳にして完璧な淑女の礼で取り繕うとしたが、ウィルフレッド殿下に私の態度を気にした様子はない。というよりも、その天使かと思える美しい顔の、眉間に刻まれた深い谷間が「面倒くさい」と物語っている。
これは私の礼が遅れる前から出来上がっていたので、殿下は全くこの婚約を喜ばしく思っていない事はありありと分かった。私もその方が有り難いので内心でこれからの身の振り方を考える。
最萌スチル、王太子とのトゥルーエンドスキルを思い出したと同時に、刹那にしてマリエル・メレバーの六年という短い年月を上回る二十五年という記憶の洪水は、今の私と過去の私をぐちゃぐちゃにこねくり回す事もなく、ストンと、あっけない程に納まった。
普通こういうのって熱を出すとか、倒れるとか、そういうの無かったっけ? どんだけ私図太いの? いや、これは完全に過去の私に引きずられているので、マリエルがか細すぎた? って、そりゃ六歳だもんね、仕方がない仕方がない。
マリエルの人格にあった人権とか、そんな事で悩む程私は優しくない。それよりも、これから先に起こるだろう出来事の方が断然私には重要だ。
この世界は、過去の私がプレイしていたとある乙女ゲームの世界だ。そして私はその悪役令嬢マリエル・メレバー。代々王家の専属医として勤めてきたメレバー家の長女であり、翡翠の髪に吊り上がった碧眼と、子供の今は無いが豊かな胸囲を武器に、ヒロインに何かとちょっかいを出して、最後は婚約破棄をされて国外追放である。殺される、というエンディングは私が知る限りなかったが、完全天然モノのお嬢様であるマリエルが、貴族位をはく奪されて追放されれば、その後は推して知るべしである。
しかし、今の私には国外追放はそこまで恐ろしいものではない。だが、避けられるなら避けたい。最萌えカプである王太子×ヒロインのその後が、この目でじっくりねっとりガッツリ見られないとか、鼻先に突きつけられたジャーキーを待てされた犬である。
ならばどうするか。婚約破棄はしてもらわないと困る。しかし国外追放も困る。できればヒロインとは険悪にならず、欲を言えば侯爵令嬢の立ち位置はキープしておきたい。
そう、目指すはヒロインの相談にのってあれこれとヒントを与えるお助けキャラである。
殿下との初お目見えを終えてから、私は穏便な婚約破棄の為に準備を重ねた。
まず私に必要なもの、それは味方である。
私が恋の障害として二人の前に立ち塞がった時、私の思惑を知っていて「マリエル、お前ってやつは……」と、やれやれと首を振りながらもフォローしてくれる仲間が欲しい。
目を付けたのは、私の一つ上のお兄様、アルベルト・メレバーである。
お兄様は私が王太子と婚約したため、将来メレバー侯爵家を継ぐ為に遠縁の親戚からお父様が連れてきた、義理の兄である。そして攻略対象キャラでもある。
だが、私の最萌えカプは王太子×ヒロイン。そう、お兄様を味方にするイコール、ライバルを減らすという一石二鳥プランである。
ごめんね、お兄様。その代り、お兄様に似合う素敵なご令嬢が現れるまでは、このマリエル・メレバー、お兄様に寂しい思いはさせませんよ!
ゲームでは、お兄様と私の中は良くなかった……というオブラート表現を外して言えば、最低の最低、天国と地獄の断崖絶壁だった。
幼い頃に侯爵家に引き取られたお兄様を、マリエルは蛇蝎の如く拒絶し苛め抜いたのである。そしていじめの腕を磨いたマリエルは、ヒロインに噛ませ役として全身全霊でぶつかった。
だが、今の私にお兄様を嫌う理由も必要もない。
侯爵家に初めてやってきたお兄様は当時七歳。将来色香を匂わせる超絶イケメンの片鱗を、ライムグリーンの艶やかな髪が半分隠している。両手でぎゅっと抱きしめている赤い表紙の本は、お兄様が実家から唯一持ってきた思い出の植物図鑑である。
そして今、その本を私に読み聞かせながら穏やかに微笑むお兄様と、そのお兄様を見てニッコリ笑う私達を、誰があの断崖絶壁兄妹と思うだろうか。
お兄様との仲を良くするのは、悪く言えばチョロかった。なんせ、いじめなければいい。
実家よりも侯爵家の方が本がたくさんあるから、と養子入りを選んだ本の虫なお兄様の隣で、時に本を読み、時に遊びに誘い、時に語らい、時に一緒にお昼寝をしていたら、半年後にはお兄様は私を「マリー」と、愛称で呼んでくれるようになった。原作では「アレ」とか「ソレ」である。
「お兄様、私お外で遊びたいのです。この間お兄様が読んでいた図鑑に載っていたお花を、庭師が植えてくれたのです。今日綺麗に咲いたと聞いたから、お兄様と一緒に見たいのです」
「マリーが言う花は……マリーゴールドかな?」
「そうです、私のお花ですわ!」
お兄様の腕を引っ張り、庭に促す。その時の兄の表情は、「やれやれ、マリーったら」という困ったように見せかけて実は全く困っていないというアレである。まさに私の求める味方像そのものである。
庭師が丹精込めて育てたマリーゴールドは、実に綺麗だった。
「とても綺麗です! ……けど、変な匂いがしますのね」
「図鑑に独特な臭気を持つと書いてあったけど……これがそうみたいだね。図鑑で読むだけでは分からない事って、たくさんあるんだね」
「お花はとても可愛いのに、残念なお花ですわね。まぁ、私は嫌いじゃないですけど」
「名前が似ているから?」
そう言ってクスクスと、楽し気に笑うお兄様にぷくっと頬を膨らまして抗議するば、今度はアハハと声を上げて笑い出す。堪えられなくなったらしい。
この幸せそうな兄妹の図、ドヤァ。
私が内心でドヤァをしていると、そこに洗濯物を抱えたメイド、アンが通りかかった。
「アン!」
私はアンに駆け寄る。アンは私と同じ六歳の女の子を生んだ母親でもあるが、その見事なウェーブの赤い髪と笑うと浮かぶえくぼがチャーミングな女性である。
そして私が将来の為に打った、布石その二である。
「マリエル様、どうされましたか?」
「この間お話ししてくれた、アンの娘さんはお元気?」
「えぇ、メレバー侯爵様のお蔭で、母子共に幸せに過ごさせていただいております」
このアン、実はヒロインであるリリー・スカーレットの母親なのである。アンは元々スカーレット男爵家のメイドであったが、男爵がアンに手を出しリリーを身籠ったが、それを知った男爵の正妻が身重のアンを追い出すのである。
原作では平民として母子家庭で育ったリリーは、男爵の正妻が亡くなった事によって男爵家へアンと共に迎えられ、そして貴族教育の一環として学園へと入学させられる。そこがゲームの始まりである。
しかし、今まで平民として過ごしてきたリリーにとって、貴族社会の色濃い学園生活は過酷なものだった。主にマリエルのいじめが原因だが。
だが、私はリリーと仲良くやりたいのである。あまりあれこれ口うるさくしたくないし、何より男爵の血が流れているとはいえ、元平民のリリーと殿下の婚約はかなりのハードルがある。悪役令嬢マリエルの存在があったからこそ、美談として最高のトゥルーエンドがあるのだが、悪役令嬢スパイスがなければ元平民のリリーにはハードルが高すぎる。伯爵ぐらいの階級があればまた違ったのだろうが、流石にそこはどうにもならない。
そこで私は、男爵家を追い出されたアン親子を、メレバー家で雇う事にしたのである。これは本当に本当に大変だった。なんせ私は六歳である。自分で探しに行けるわけもなく、六年間平民として暮らしているアン親子を探すのは本当に大変だったが、ひとえに侯爵家の家臣たちが有能だった為に何とかなった結果である。
探し終えてから、今度はお父様の説得というイベントが発生したが、そこは案外簡単に片付いた。スカーレット男爵家の管理する領地は山間部なのだが、特産品のオレンフェという果物がその地でしか育たないという事で、日常的に食べるものではないがそこそこ安定した収入のある肥沃な土地といえる。その男爵に恩を売れるチャンスである。そこを力説したら、お父様には奇異なものを見る目で見られた。私、六歳。当然の結果である。
しかしお父様は納得して、アンを雇ってくれた。
「お前を王太子の婚約者にするのは、早まったかもな」
「嫌ですわ、お父様。そのようなご冗談を、オホホホ」
お父様は超絶実力主義であるから、六歳にして男爵に恩だとか、男爵の醜聞を知りえた私を王家に渡すのは惜しいと感じてくれたようだが、その後距離を取るだとか辛く当たるだとか、教会に悪魔祓いを頼むとか、そう言ったことはない。むしろ積極的に学問を身につけさせようとか領地経営方法を学ばせようとするのやめて、私、六歳。遊びたい盛りです。
とにかく見事にアンをメレバー家に迎える事ができたわけだが、リリーには会っていない。というより、会わない様にしている。幼い頃にあまり親しくなってしまうと、殿下の婚約者という私の立場を慮ってリリーが殿下から一歩引いてしまうかもしれないから。
ならどうしてアンを雇ったのかといえば、リリーに教育を受けさせる余裕を与えたかったのだ。平民として暮らしていた為に、男爵に引き取られたリリーはかなり苦労したようだが、今のうちからできれば淑女教育をリリーに受けさせたい。
男爵にはアン親子をうちで雇っている旨は、お父様がひっそりこっそり伝えている。すると男爵は、うちとの特産果物の取引で市場価格よりも数倍も低い金額で卸してくれた。その分の利ザヤの一部を、アン親子の養育費に、という商談が纏まっているらしい。その辺はお父様に投げたので知らないけれど。
そしてお父様からアンに、男爵が正妻を説得した暁には側室として迎えたいと思っていると伝えられており、リリーには淑女教育を、という話にうまく転がったのである。あまりにうまく行き過ぎて、その話を聞いた時は悪役令嬢っぽい高笑いが止まらなかったものである。
こうして私は味方のゲットと、リリーの淑女レベルアップを図ったのであるが、もう一つ、行ったことがある。
「おい、おま――」
「殿下! まさか私の事を、お前などと呼ぼうと?」
「うっ……」
プラチナの輝き美しい髪の毛に、天使の如く整った顔を持つ麗しの殿下。その性格が、残念だったのだ。
今も婚約者である私に、「おい、お前」などと呼びかけようとしたのである。例え婚約者に不服があろうとも、それを表に出すなど王族にあるまじき分かりやすさである。お前のお父様を見ろと言いたい。荘厳な表情は常に変わらず「うむ」という二言だけの返答が喜怒哀楽すべての表現に用いられるために、執政官たちはその感情を読み取るのに四苦八苦しているというのに。
王族だって、平民だって、誰にだって嫌な事やキツイ事はある。でも、それを王族は表に出してはダメなのだ。相手国の王族が気に食わないと眉をしかめただけで外交問題に発展するかもしれない。そうなったら何万という民の血が流れる。それが国を背負うという事なのだ。
そこの所、この王子様分かってない。
ゲームの時はあまり気にならなかったが、お父様から帝王学を学ばされ始めた私には、そりゃもう気になって気になって気になって、小姑の如く殿下に小言を浴びせたのである。
結果として、殿下は私の事を嫌ってくれているようなので、結果オーライである。
「淑女相手にお前などと、紳士として恥ずかしくはありませんの?」
「淑女……?」
「なんですの、その不満そうなジト目」
「ならおま――マリエル、だって、王太子に対してあまりにズケズケと言ってくるのは、淑女としてどうなんだ」
「私は殿下の為を思って言っているのです、愛の鞭です。だからノーカンです」
「ずっ、ズルいぞ! お前はいつもよくわかんない事言って俺を誤魔化そうとする!」
「お前? 今、お前と言いましたね?」
「っ!」
「殿下、私は悲しいです。こんなに伝えても分かって下さらないなんて……口だけではなく、本物の鞭でシバキ倒して欲しいのでしょうか?」
「淑女ならそんな事ぜっっったい! 言わない!」
そう言いながら走って逃げる殿下の後姿を見送る。うむ、順調に殿下の好感度は下がっている。