美食家の目覚め
美味しいものしか食べたくない。
そう伝えた時母は口元を引き吊らせていたわ。
別に好き嫌いが激しくて食べない訳ではないの。単純に、美味と感じるものだけ食べていたいだけ。
昔は子供ながらに苦味や濃い酸味のある食べ物は苦手だったけれど、高校生にもなれば好き嫌いで食べられないものはなくなった。むしろ食べ物の味をはっきり感じて甘味の中のほろ苦さや酸味の中にある甘味という絶妙なバランスが大好き。
それでも母にそう伝えたのは、確か高校生にもなった娘が一切の家事とくに料理に手を出そうとしなかったことに焦った母が私に小言を連日聞かせ料理を教えようとしたからだったと思う。
母の作る卵焼きが好き。ハンバーグも酢豚もひじきの煮付けもレバニラも。カレーやチャーハンも好きだし、格別に好きなのはもつ煮。父が熱燗で食べるもつ煮をわきから取り返すように食べるのは小さな頃から変わらない。母が作る量を増やしても必ず父の取り分から貰うの。だって父が食べてる方がもっともっと美味しそうなんだもの。
季節もののたけのこご飯や栗ご飯、けんちん汁やおでん、母特製のつけつゆと薬味が用意されたそうめんも大好き。
あまり量が食べられない料理が食卓に並ぶとそちらの皿の方が多い、いやそっちの方が!と弟と喧嘩になるくらいだった。
なんでこんなにも食べることが大好きな私が料理には手を出さないか。
それは自分で作るとほとんどの確率で美味しくないから。
小学校の調理実習で学んだ自分の作る料理の不味さにもっと練習すれば、レシピ通り作ればとこっそり頑張ったこともある。それでも大好きな母の味に近付くことはなかったし、それを食べて美味しいと感じることは絶対になかった。
そして私は悟ったの。
美味しいものを私自身が作るのは絶対に無理、美味しいものを作ってくれるところに我慢せず通えるだけ稼げる大人になろう、と。
密かに胸の中で誓っていた事を母に告げるといっそ清々しいと苦笑いされたの。
大学生になりひとり暮らしを始めて仕送りとバイト代では外食や買ってきた惣菜なんかで食べていけなくなって、わずかな期間自炊も試してみたけれど二度としたいとは思えない。
なんと不味い、やる気も幸せも感じられない食事をこんな労力をかけて作り食べなければいけないのだと自分自身へ怒り狂っていたわ。
他の何を切り詰めても食事だけは自分の美味しいと感じるものを食べたい。
そう思いながら社会人になり、美味しい食事を食べるために給料を増やそうと昇進試験や成果上げに全力を尽くしたわ。お陰様で過去最年少の女性課長になって毎日食べたい量の食べたい物を我慢することなく美味しく食べることができるの。
え?なんでこんな話をしたのかって?
ええっと?そうだわ、アナタが味見させてくれた卵焼き。母の卵焼きと同じくらい美味しかったのよ。
それにアナタが美味しそうに食べますね、なんて言うから美味しいものしか食べたくないって言い返してしまって…アナタの引き吊った顔が母を思い出させたのね。だからついつい昔のことをアナタに話してたんだわ。
美味しい卵焼きをごちそうさま、午後の会議も頑張りましょう。
ところでさっき食べさせてくれた卵焼きと今アナタが食べてるお弁当は彼女さんが作ったの?それともアナタのお母様?
へ?アナタの手作りなの…?
けんちん汁を作っていたら私の脳内で彼女が熱弁していた。
美食家の恋より前の時間軸。彼との出会い、というか彼女が彼に興味を持った瞬間。