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ジオ
ディオンは馬に乗り、森へ向かいました。
雪は止むことなく、降り積もる雪の多さに馬を乗り捨て歩いて行きました。
クラウディオが会談の場で叫んで以来、どんどん小さくなっていくように感じていました。
ディオン自身もそうですが、会えるものなら、一刻も早くクラウディオをジオに会わせたいと思いました。
ノームたちから贈られた外套は雪が積もることなく、肩からさらさらと落ちていきました。けれど、革の長靴は水がしみました。つま先が凍えましたが、ディオンはあの森の入り口まで来ました。
吐く息で前髪が凍っています。鼻の頭が冷えて顔もこわばっています。
石畳の感触が消えるあたりでディオンは息を大きくすいました。
そして、歌を歌いました。
ノームたちのおかげで思い出した、懐かしい曲を。
はじめ、ディオンはうまく声を出すことができませんでした。けれど、しだいしだいに喉がほぐれて、歌声は森の木々をふるわせ始めました。伸びやかな声は、森の奥まで届いているかのようです。
しばらくすると、ふいに暖かい風が頬に当たりました。
と、足下の雪が消え始めました。思わず歌が止まりそうになりました。
ここで止めてはいけない。
ディオンは頭をふって、歌を続けました。
まるで薄い膜が一枚ずつはがされていくように、ディオンの目の前に春の森が徐々に姿を現して行きます。背中には冬の寒さが乗ったままです。振り返ると、背後では雪が降っているのです。
けれど、ディオンが目の前の春の森に一歩足を進めると、瞬く間に前髪の氷は解け落ち、体中が暖かな日の光につつまれました。
寒さに凍えていた体がほぐされていきます。
小鳥のさえずり、ミツバチの羽音、花の香り、緑の葉が風にゆれてまぶしい日差しが道に木漏れ日を作ります。
幼いときに過ごした森に間違いありません。
ディオンは駆け出しました。何もかも思い出しました。
木の一本一本を、ちいさな水辺を、色とりどりの花畑を。
息を切らし、ディオンは額の汗をぬぐいました。
そしてついに、ささやかな畑と小さな小屋が見えました。
ようやくディオンはたどり着いたのです。
ディオンは懐かしさで胸がいっぱいになり、はち切れそうです。
ジオ!
ディオンは叫びました。あの扉の向こうにはジオがいるはずです。
ディオンは木の扉の取っ手を掴むのももどかしく、思い切り開け放ちました。
狭い室内は静まり返っていました。あるものといえば、質素な寝台と小さな卓と一脚だけの椅子。
そして、機には織りかけの布。高い窓からの光が室のなかを淡く照らします。
ジオはいません。
機のそばへ歩みよりました。細い細い糸がかけられ、織り上がった布はきらきらと輝き、光の粒が踊っているように見えました。
ふと部屋のすみに小さな椅子がありました。
あれは……ディオンの椅子です。
突然、堰を切ったようにジオとの暮らしが次々と思い出されました。ジオが差し出した木の匙が唇にあたる感触、ジオに抱かれて歌を聞いたとき背中に感じていたぬくもり。ディオンは身じろぎひとつせず、ただ立ち尽くしました。
背後で音がしました。
振り返ると、エルフが立っていました。両手で口で隠し、こぼした桶の水は足下をぬらしています。
胸のあたりまで届く黒髪、先のとがった耳、そして見開かれた磨かれた榛の瞳。
ジオ!
名を呼ぶより早く、ジオは身を翻して駆け出しました。
逃げないで、ジオ!
ディオンは追いかけました。ジオはまるで飛ぶように木々のあいだを走ります。
たなびく髪、白い衣……夢で見た光景さながら……これは夢なのか、とディオンは混乱しました。
いいえ、違います。夢などではありません。足が痛みます。息があがり苦しく感じます。
ここでジオをあきらめたなら、取り返しのつかない後悔に苛まれるでしょう。
ディオンはジオを見失わないように必死で走りました。
藪や小枝で手や頬を切りました。構わずに走りました。喉が締めつけられるように熱く苦しくなります。それでも走りました。
二人は走って走って、森の奥ふかくまで来ました。不意に大樹のもとにジオは力尽きたように倒れました。
ジオ!
息も絶え絶えのジオは、かすかに身を起こしディオンを見ました。
髪が伸びたほかは、あの日別れたときの姿と寸分の違いもありません。
背が高いと思っていたジオはひどく小さく、痩せていました。そして苦しげに眉をよせ胸を大きく上下させました。ディオンはジオを抱き起こして、ぎくりとしました。
ジオの体が透けていたのです。
ノームの長老の言葉が思いだされました。
命を生み出したエルフは己の命を削り、長くは生きられないのだ。
ジオ……!
ディオンの問いかけにジオはかすかに目を開き、ディオンを見つめました。
一粒の涙がジオの頬を流れ落ちました。
ジオの唇がわなないています。まるで言いたいことがありすぎて、何から話せばいいのか激しく戸惑っているかのようです。
時が満ちたのですね……。
懐かしいジオの声。ディオンは、はかなげに透けるジオの手を握りました。
ジオは微笑みました。
長老の樹に誓いを立てていました。大きくなったあなたを一目みることが叶うのなら、わたしの命をお返ししますと……。
ノームから聞いたとおりならば、ジオもまたディオンの繭を抱いてこの大樹から命を与えられたのでしょう。
……わたしの身勝手で辛い思いをたくさんさせて……。
ジオの肉の落ちた頬からは血の気が失せています。
ディオンは首を横に振りました。
辛くなかったかと言えば嘘になります。けれどもディオンは不幸ではなかったのです。伝えたいことがたくさんありました。
ずっと会いたかったことや、ブラント家や学舎でのこと、鉱山とノームたちのこと、そしてココのこと。
けれどそれらすべて、言葉にはならずディオンは嗚咽しました。
ディオン……愛しい子。
ジオはかすれた声でささやきました。
ディオンはジオの体を抱きしめました。
ジオの体から光の泡がぽつりぽつりと生じ、それをきっかけに、まるで花弁が散るようにジオの体は崩れて舞い上がりました。
ああ!!
空に金の光がジオの輪郭を描きます。夢で幾度も見たジオのです。長い黒髪、雛菊の花冠。やせていた顔は少女のように柔らかい丸みを帯びています。
ジオ!
高みへ昇るジオにディオンは懸命に手を伸ばしました。もう触れることはできない。それは分かっています。けれども、あと少しだけ、あと一度だけジオに触れたいと切に願いました。
ジオは今まで見たことがないくらい、優しく微笑みました。
行かないで!
思いきり叫んだディオンは、男の背中を見ました。自分の中から飛びだして、空を駆け上がります。
クラウディオ……。
それはクラウディオでした。
ディオンという器から解放され、自由になった彼はジオの手を取ります。二人はしばし見つめ合いました。淡く輝く恋人たちは抱き合いむせび泣きました。
ディオンはどんどん遠ざかる二人を見あげました。両の目からはとめどもなく涙が流れました。
クラウディオとジオはかすかにディオンに手を振ります。
「さようなら、クラウディオ」
もう一人の自分。ディオンは初めてクラウディオの名を呼びました。
そして……。
「ありがとう、ジオ……さよなら、おかあさん」
たしかに、自分をこの世に送りだしてくれた存在。ディオンは空を見あげたまま、崩れ落ちました。いつの間にか、春の日ざしは消えて雪が降り始めていました。
エルフの里は遠ざかり、森は冬にもどりました。そして、雪はディオに降り積もるのでした。
ディオンはココのもとへ帰りました。
そしてジオの残した布で作った花嫁衣裳を身に付けて、明るい春の日にディオンのもとへ嫁いできました。
二人は仲睦まじく暮らし、二人のあいだに生まれた子どもたちは精霊と絆を結び、素晴らしい手業を与えられました。その技はディオンの治める土地の者たちに伝わりました。
ディオンは小さな領地の民人とノームの幸せをいつも考えました。そして、皆から慕われました。
家督を子どもへ譲り、年老いたディオンはときおりココと森へ散歩に出かけました。
そんな時には、かならずどこからか銀鼬があらわれて二人のお伴をするのでした。
そしてディオンは子どもや孫に、昔話のように語りました。
ディオンの養い親は……母親のジオはエルフでした、と。
終わり
長々とお付き合いいただき、ありがとうございます。
結婚式に遅れた花嫁がおりました。
花嫁は花冠を編んでいて遅れたのです。
彼女の名前は岸田衿子。
「ジオジオのかんむり」の作者です。
(ちなみに絵は中谷千代子さん、大好き)
自分が子どもの時に、童話作家になりたいと思っていました。
気づけば、童話らしいものはほとんど書いたことがなく、「書きたいなあ」と。
けっきょく、童話らしからぬ内容になってしまいましたが。
だって、中身はSFだろう、とか。結局ディオンはクラウディオのクローンだろうとか、突き詰めるとひじょうに怖いことになってしまうのです。
そんなわけで、じつに中途半端になってしまいました。
もっと、いろいろと勉強しますm(__)m
推奨BGM スピッツ「楓」
コブクロ「ここにしか咲かない花」
エンディングにどうぞ。