憑き夜の晩に
「た、助けてくれ! 命! 命だけは!」
などと命乞いをしつつ、ちゃっかり反撃の準備をする自称・大魔王の手癖の悪さを私は見逃さない。彼唯一の取り柄である火炎魔法(自称・地獄の業火)を放とうとしているのだろうが、こんな下等な攻撃でどうにか出来ると本気で思っているのなら、幾千幾万の世界を救ってきた「英雄」も舐められたものだ。
「そうだ! お前に世界の半分を……!」
私は末期の妄言を吐く首を両断した。地獄の業火が関の山な彼に、「英雄」の太刀筋は感じることも出来なかったろう。
こうしてまた、面白くもない「英雄」の戦いが終わる。白けた気分で立ち去ろうとした時、入口の扉が音を立てて開いた。私は即座に剣を構え、扉を開けた何者かと対峙する。そして、その正体を見た私は思わず眉を潜めることとなる。奴隷と思しき女が相手だったからだ。
過度に華美なドレスを着た彼女の双眸には、家畜のような媚が染みついていた。
言ってみれば私は、永遠に朽ちることのない「英雄」達の依り代である。
満月が昇りきった時から次の満月が昇りきるまでの間、私は私の中の「英雄」の魂の赴くままに、世界を救うべく戦う。世界Aの満月が昇りきった時、私は世界Aを救う「英雄A」として戦う。次に世界Aの満月が昇りきった時、世界Bを救うための「英雄B」としてこの身体ごと世界Bに転移し、新たな戦いを行う。そういったことを幾千幾万と繰り返す日々を、私は永遠を感じるくらいに過ごした。
千差万別な「英雄」は例外なく圧倒的な力に満ちており、ほぼ全ての戦いで圧倒的勝利を収める。大多数は私に触れることすら出来ず、私にまともな傷をつけられるものは稀である。ほぼ全ての戦いで圧倒的に勝利する「英雄」に大多数が惜しみない賞賛を送り、ごく一部が辛辣な非難を叩きつける。そして大体の場合、その余韻を味わうことなく次の満月の夜がやってくるのだ。
しかし、自称・大魔王を倒したその「英雄X」の世界では、その法則は当てはまらなかった。次の満月の夜が訪れるまでには余りに時間がありすぎたし、この時の私は余りに精神が混乱していたからだ。
自称・大魔王を倒した後、私は「誰も私を訪ねてはならない」と前置きした上で山中に篭った。満月の夜までの五日間。今の私にはあまりにも余計すぎる時間を虚無的に過ごし、そして今、昇りきらない満月をぼんやり眺めていた。あれが完全に昇りきった時、また新しい世界で「英雄」の戦いが始まる。しかし、今の私には、遠い世界の現象にしか思えなかった。
「英雄」は、この世で最も手軽に世界を救う奴隷だなと自嘲交じりに思う。
そんな今の私にとって、「私」はただの余計なモノにしか思えなかった。私はあくまで「英雄」達の依り代。幾多の「英雄」のための入れ物に過ぎないのだ。
「英雄A」から「英雄B」に移り変わる際、「英雄A」は私の中から消滅するが、その記憶は消滅しない。私の肉体が――基本的には私の支配下にある私の肉体が、敵を殺せという「英雄」の囁きの中で敵を殺す。何千何万と繰り返される殺戮の、その生々しさ、そこに息づく幾千幾万の「英雄」たちの意志と記憶。そういうものが、「私」をバラバラにすべく蠢くのだ。
そして、あの女奴隷が浮かべていた媚びの瞳。あれほど暴力的な瞳を向けられてなお、「私」が本当にバラバラになることはなかった。そして、だからこそ「私」は心底疲れきっていた。いっそ、本当にバラバラになれば楽になるのに。
遠くから、私を呼ぶ少女の声が聞こえてくる。少女は息を切らし、私に向かって駆け寄ってくる。そして私の下にきた彼女は、私を捕まえるように抱きしめた。
「お願いしますお姉さま! どうか私を置いて消えないでください!」
お姉さま、お姉さまと泣きながら必死にしがみつく少女。彼女は私がこの世界に来た時に最初に出会った少女であり、以来、私のことをお姉さまと慕ってきた。幼いながらも可愛らしく、心清らかだが、あまりにも優しすぎる少女だった。
やめて、と私は思う。そんな純粋な目ですがられると、「私」はとても混乱する。「私」と沢山の「英雄」が混じり合い、とても悍ましい感情に支配されてしまう。特に悪夢のような瞳に見つめられた後は。
自称・大魔王を倒した直後。立ち去ろうとした私の元に、過度に華美なドレスを着た女奴隷が私の前に現れた。
困惑する私を尻目に、女奴隷はヘラヘラと笑い、私の下に駆け寄ってきて抱きついてきた。甲冑をつけた私のことを男だと勘違いしたのだろう。見上げる瞳は、私を新しい主人と認識しているようだ。媚という衣を纏った空洞の瞳。魂の奥底から怖気を感じずにはいられなかった。
何故ならこの瞳は、かつての私が浮かべることのあり得た瞳だったからだ。
コロセ。違う私は(しかし「私」の思考は瞬く間に塗りつぶされる)スクエ。ミニ(違う)クイ。トウト(止めて)イ。タタカウ。カツ。キ(壊れる)ュウサイ。カミ。イキロ。シネ。スクエ(バラバラ)。カチハナイ。コロセ(怖い)。コロセ(誰か)。コロセ(助け――エイユウタレ。
私は獣のように叫んだ。私の中に蠢く幾千幾万の「英雄」達。それが墨をぶちまけるように私を塗りつぶす。そしてその衝動の赴くままにその女奴隷を叩き切った。ごろりと倒れた彼女の空疎な瞳は、未だに私のことを見据えるようだ。それが恐ろしくてたまらなかった私は、再び叫び声をあげながら彼女の頭を何度も何度も剣ですりつぶした。違う、これは「私」じゃない。私が望んだのはこんなことじゃない。そう、何度も何度も嘆きながら。
――お前、オレと一緒に来いよ。そんでさ、いっぱいキレーなものを見ようぜ。
私の脳裏に浮かぶのは、かつて私を外の世界へと導いてくれた、清らかで美しい瞳を持った彼の姿。とても大きな建物の中に閉じ込められていた私を救ってくれた、英雄のような大泥棒。私は宝石のように美しく光り輝く瞳を持った彼と共に、世界中のキレーなものを見続けることを望んだ。それだけが望みだった。
しかし、彼は一粒種の子どもを残して、二度と帰ってくることはなかった。
――大丈夫だ。いつもそばにいるから。
奴隷たちの淀んだ瞳に囲まれる悪夢を見た時、しがみついて泣き叫んだ私にそう囁いてくれた彼はしかし、かつての仲間を救うために旅立って行ってしまった。
――泣かないで母さん。オレがきっと、母さんのための英雄になるから。
そう約束してくれた私の子は、今までに見た何よりも美しく、尊い存在だった。
しかし、戦禍に巻き込まれた時、私の子は私のことを庇い、その全身をバラバラにして死んだ。私は辛うじて残った我が子の右手を抱きかかえ、慟哭した。
こんな、こんな地獄を見るために、私は彼の手を取って逃げだした訳じゃない。
次に気がついた時には、私はとても暗いところで横たわっていた。そして、その傍らには、全身に黒いローブを纏った小柄の男。彼の顔も歳も分からなかった。
――お前は、死ぬことを望むか?
私はしばらく考えた後、頭を振るった。
――ではお前は、一体何を望む?
何を望むのだろうか、と私は思った。大切な人は消え、尊い子も死んだ。そんな私が望むものは一体なんだ、と。
私の大切な人は、英雄のような人だった。私の尊い子は、英雄たることを望んでいた。私は、何を望むのだろう。ただ、英雄のような人に救われ、守られようとしていた、捕らわれの身だった私は。
「……えいゆう」
そして私は、望みを言った。
「救われるべき者達の、英雄になりたい」
「違う……わたしは、私はあ……」
女奴隷を欠片も残すことなくすり潰した「私」は、膝を折って頭を抱えていた。あれほど蠢いていた「英雄」達は死んだように静まり返っている。私は彼女を救わなねばならなかった。それこそが私の望みのはずだった。しかし、私は彼女を、かつての私だった彼女を受け入れられなかった。「英雄」達の情動に身を任せて欠片も残すことなくすり潰してしまった。
「私」は、「英雄」なんかじゃない。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
私は顔を覆って涙を流し続けた。私はひたすらに、「私」を呪い続けた。
「お姉さま……私には分からないのです」
満月の昇りきらない世界で、少女は私にすがりながら嘆くように言った。
「私はこの後、どうやってこの世界で生きていけばいいのですか? 大魔王が死んだ世界で、私は一体何なにをすれば?」
この時、私の中で再び「英雄」が蠢きそうになった。コロセと、スクエと、獣じみた情動に駆られそうになった。私は、「私」を殺して、「英雄」になるのだ!
しかし少女の瞳を覗いたその時、宝石のような言葉が湧き上がってきた。それはあるいは、少女の瞳の中にかつて大切な人の瞳に見た輝きを見たからだろうか。
――お前、オレと一緒に来いよ。そんでさ、いっぱいキレーなものを見ようぜ。
――泣かないで母さん。オレがきっと、母さんのための英雄になるから。
私はこの瞬間、「私」と「英雄」がキレイに混ざり合ったのを感じた。
「お姉さま、どうか私を導いて下さい」
最早、言葉はいらない。私は微笑むと、少女の身体を強く抱きしめた。私の体温と少女の体温が、緩やかに混ざり合っていくのを感じる。しかし決して一つにはならない。それでいいのだ。混ざり合う思いの中で、時々訳が分からなくなる程に沢山の思いの中で、「私」たちは思いの語り部として生きていくのだ。私が、「英雄」という語り部として生きるように。
少女は激しく嗚咽していた。私はそんな少女を、ただ黙って抱きしめ続けた。
「約束します」
やがて少女は、私から離れてはっきりと言った。彼女の瞳には、かつて私の大切な人が浮かべていたのと同じ、清らかで美しいものがはっきりと浮かんでいた。
「お姉さま、私は約束します。私は必ず、お姉さまのように色々な人を導ける人になります。その為に私は、強くなり、前を歩いていきます。だからお姉さま、お姉さまはどうか、もっと色々な人を導いて下さい。私の、尊い人でいてください」
ああ、これが「私」だ。私は今、とても穏やかな気分だった。「私」はきっと、「英雄」になるのだ。「私」がきっと、救うべき人を救う「英雄」になるのだ。今、こうしてこの少女を救ったように。
満月が、昇りきろうとしている。私の中の「英雄」の上に新たなる「英雄」が上書きされ、かつての「英雄」は記憶になろうとしていた。これでいいのだ。私は、幾千幾万の思いの中で生きていく。
「お姉さま……ありがとう」
満月が完全に昇り切ったその瞬間、月光は私と少女を、眩いくらいに照らしていた。




