第九十五話 最後の笑顔
ズブリ――
肉に突き刺さる鈍い音。体の中の温かさと外の冷たさが同居する不思議な感覚。
Ωの手は見事に胸に突き刺さり、貫通した腕は血で赤く染まっていた。
――だが、貫いたのは痩身の研究者の体ではない。
「お姉……ちゃん?」
Ωと痩身の研究者の間に割って入る形になった彩華の胸には、Ωの腕が深々と刺さっている。
「あ、あああああ」
「統也……くん。こんな奴でも……殺しちゃダメよ……」
慌てて彩華の胸から腕を引き抜く。
口からも血を垂らし、胸からあふれる尋常ではない量の血がその傷が決して浅くないことを物語っている。
「ああああ、お、お姉ちゃん、僕、僕……」
「だいじょうぶ……大丈夫だから。だから……笑顔を見せて?」
もう喋るのも辛いであろうはずなのに、彩華はΩに笑顔を向けると、最後の望みを口にした。それは彩華が最も好きだったΩの表情だ。
「む、無理だよ」
お姉ちゃんが死んじゃう。そんな時に笑顔なんて――
「お願い、統也くん、お願い……」
彩華の声がどんどん小さくなっていく。これではもう彼女は……
「こ、こう?これでいい?」
Ωがぎこちない笑顔を彩華に向ける。両の目からは涙が止めどなく溢れ出る。
「そう……ありがとう。統也くん……は、良い子だね。良い子……良い子」
ゆっくりと、彼女の手がΩの頭に伸びる。優しく、包み込むように彼女はΩを撫でた。本当に愛おしそうに。
一回、二回、そして三回目、その手が力なくΩの頭から落ちた。
「お姉ちゃん?――お姉ちゃん!お姉ちゃん!」
彩華を抱きかかえて必死に彼女の名を呼ぶが返事はない。彼女の両目は閉じたまま、二度と開かれることはない。彼女はもう、手の届かない所へ逝ってしまったのだ。
「なんだ、もっと役に立ってほしかったんだが、残念だな」
恋人が目の前で亡くなったというのに痩身の研究者の関心は彼女の死ではなく、Ωの成長に向けられていた。その事実がΩの悲しみに暮れる心に再びあの感情を蘇らせる。
「フー……フー……お前……」
握った拳から血が滲み出る。しかし痛みは無い。滲んだ血が彩華の血と混じり合う。しかしもう彼女はいない。
こんなやつのためにお姉ちゃんは――
「おっと、勘違いしないでくれよ。君の相手は僕じゃない。僕はただの傍観者だ。君の成長を最も近くで見たいと思っているだけさ」
「お前……お前!お前ェェェェ!」
Ωが痩身の研究者に殴り掛かった。だが、彼の手は研究者の目の前で止まる。そして、Ωはその場に倒れてしまう。なぜか体が動かない。
「ふぅ~、あまり面倒を掛けさせないでくれよ」
Ωの体はピクリとも動かず、首を動かすことも出来ない。そのため、上から聞こえてくる声に顔を向けることすらできない。
「君の体は隅々までいじってあるからね。特定のガスで君の動きを封じることなんてわけないんだよ。この施設はこういう時のためにいつでもそのガスが出せるようになっているんだから。あまり逆らわない方が良いよ。君はしょせん私の道具なんだからさ。まあ、彩華も同じようなものだったけどね」
道具?違う、僕は統也だ。僕もお姉ちゃんも道具じゃない。れっきとした人間だ。道具なんかじゃない!
「ググググググッグ」
「無駄だよ。このガスは強力なんだ。どう足掻いたって指先一本動きゃしないよ」
確かに体は全く動く気配がない。だが、ここで諦めるわけにはいかない。自分は道具じゃないと、お姉ちゃんは道具じゃないとコイツに分からせなければ!
「ガガガガガッガガッッッ」
「だから無駄だと――ッ!」
Ωの腕が少しずつ、上がり始めている。
それはあり得ないはずの光景だった。Ωの吸ったガスは五分ほどで全身に行き渡って筋肉を麻痺させて、全くの身動きを取れなくさせる代物だ。
「アアアアアアアア!」
Ωが咆哮を上げて立ち上がる。その姿はまるで、猛る獅子のようだ。
「嘘だ!そんなことありえない!どうなって――」
痩身の研究者の言葉が急に止まる。そして、次の瞬間、彼の目に映ったのは、宙を舞う自分の右腕だった。
「え?いぇぇぇぇぇ?」
あまりの出来事に思考が追い付かないのか、細見の研究者の視線は自分の無くなった腕から先と床に落ちた右腕を行ったり来たりしている。
「お姉ちゃんに言われたから、殺さない。だけど、許さない」
それからΩは片腕だけになった細見の研究者の左腕を掴むと、そのまま力の限り握りつぶした。
「あぎゃあぁぁぁぁぁ!」
断末魔にも似た声が聞こえてくる。だが、Ωは決して彼を殺そうとはしない。
「人を殺したら悪い子になっちゃう、だから殺さない」
お姉ちゃんとの約束は絶対に守る。だけど、コイツは許さない――
それから、Ωは相手が気絶するまで徹底的にいたぶり続けた。そして、彼が気絶すると、Ωは次の標的をこの病院自体に絞り、徹底的に機材や建物を壊し始めた。逃げ惑う人々もΩを止めようとする警備員も意に介さず、Ωは破壊の限りを尽くした。奇しくも、その圧倒的な強さは、この病院の創設者が求めた超人を彷彿とさせた。
「……」
Ωが病院のほとんどを壊し終わり、一人虚しく座り込んでいると、そこに一人の老人が現れた。
「こりゃすごい。これを君ひとりでやったのかね?」
Ωはその質問に黙って頷く。何かを考える余裕などなく、ただ昔のように質問に答えるだけだ。
「ふむ、どうじゃね?わしの所へ来ないか?」
その後、Ωによってほとんどの機材が壊された病院は閉鎖されることとなった。患者のほとんどが別の病院へ移ったが、その名簿の中に統也という名前はなかった。現地の人間によると、病院閉鎖後に老人に連れられて町を去る少年の姿が目撃されているが、それが誰なのかは定かではない。
また、その町はその何年後かに突然の大地震で廃墟と化してしまったという。




