第九十四話 残酷な現実
その日もいつも通り、Ωは投薬の試験に臨んでいた。この次は血液検査が待っている。だが、今の彼は昔と違い何事にも積極的だ。
「今日も平均よりも上を維持。よし、良いぞΩ」
今回の試験結果に満足そうにうなずく研究員。そんな言葉に差して興味の無いΩは何も言わずに実験室を後にしようとした。
と、そこで彼の目にある人物が映る。
「――ッ!」
そこに立っていたのは、なんと彩華だった。今Ωがいる場所は、病院内でも特に警備の厳しく、紛れ込んで入れるような場所では無い。本来、一般病棟しか担当していない彩華がここに来られるわけがないのだ。では、なぜ彼女がここに?
「驚いたかΩ、いや、今は統也だったかな?」
男の声が廊下に響き渡り、彩華の後ろから痩身の研究者が姿を現した。
「実は彼女と僕は知り合いでね。君たちの仲睦まじい関係も話には聞いていた」
知り合い?そうか、だからお姉ちゃんはここに来られたんだ。お姉ちゃんに僕の本当の姿を見られてしまった。だけど、あの大暴れした日もお姉ちゃんは何も聞かずに僕を抱きしめてくれていた。きっと今回も大丈夫、また優しく迎えてくれる。
だが、痩身の研究者の言葉がΩの心を揺さぶる。
「彩華はここのスタッフなんだ。もちろん、君のことも知っていたんだよ?」
スタッフ?自分のことを知っていた?意味が分からない。
「お姉ちゃん?」
Ωの問いかけにも彩華は答えず、目を逸らしてしまう。なぜお姉ちゃんはこちらを見てくれないのか。
「彼女は君の監視役として選ばれたんだ。普通の看護師を装っていたが、全て知っていたんだよ」
そんな……じゃあお姉ちゃんも他の人と同じ、僕のことを統也じゃなくて、モノとして見てたの?
「嘘だ」
信じられない現実に頭を抱えるΩに痩身の研究員はさらに続けた。
「あ~、それともう一つ、彼女はね、私の恋人だ」
「恋人?」
その言葉が意味するものをΩは理解していない。しかし、彩華の様子が明らかに狼狽し、非難するような視線を細見の研究員に向けるところを見ると、あまり自分には知られたくないことらしい。
「ふむ、意味が分からないか。では、これならどうかな?」
そう言うと、細見の研究者は彩華の肩へと手を回し、無理やり自分の方へと引き寄せるとその唇を奪った。
「――ッ!」
突然の出来事にΩも当の彩華も目を見開いて驚いている。そして、両手で相手を押し戻そうとするがその努力も虚しく細見の男はさらに唇を絡ませた。
その行為の意味することは分からないが、細見の男の挑発的な視線がΩの心をざわつかせた。そして、悲しそうに歪む彩華の顔もそれに拍車をかけた。
「――止めて!」
やっと細見の研究者から解放された彩華がまるで自分を守るかのように研究者から距離を取った。
「何を嫌がってるんだ。いつもしていることだろう?」
「だからって――」
細見の研究者の笑みがさらにΩをイラつかせる。研究者はそれを見て取ったのか、彩華に近づき、まだ警戒を解かない彼女の肩に手を回した。彼女の美しい首筋に、あの男の筋張った手が回される。
「お姉ちゃんから……離れろ」
Ωの腹の底から絞り出したような声がその場に響く。彼は今、感情を抑え耐えていた。暴れてしまってはあの時と同じだ。
「離れる?なぜ?」
「なんでもだ」
「そうかい。だが、残念ながら彼女は私のものだ。君に入り込む隙はない。なぁ?彩華?」
「嘘だよね、お姉ちゃん?」
Ωがすがる様に彩華へ視線を向ける。
信じられない。きっとコイツが勝手に言ってるだけだ。お姉ちゃん、嘘だと言って。
「ごめんね……」
彩華はそれだけしか言わなかった。だが、Ωにはそれだけで充分だった。彼の目の前の世界が音をたてて崩れて行くのが分かった。目の前が真っ暗になる。
お姉ちゃんは最初から僕を騙していた?全部知ってて、それでアイツの恋人で――
「アアアアアアアアアアアア!!!!!!!!」
Ωの中の感情が爆発した。この前の病室での比ではない。あの時は存在するものを求めて暴れまわったが、今は存在するものすべてを壊すために暴れ回っている。機材が壊れ、人が宙を舞い、壁が傷だらけになる。
「素晴らしい!素晴らしいぞ!」
目の前の惨状に興奮しながら痩身の研究者が笑う。
「統也くん……」
彩華が何かを言いたそうにΩを見る。Ωはそれに対して怒りの瞳を返した。
そんな目で僕を見るな、お前は嘘つきのくせに――
「もっと!もっとだΩ!もっと壊せ!」
この惨状を生み出した男は、まるで悪魔にでも取り付かれてしまったかの様に目を血走らせ、更なる惨状を望んでいる。
「アアアアアアア!」
「――ッ!」
発狂するΩが彩華の方へと歩を進めた。一歩、また一歩と彼らの距離が縮まっていく。彩華は逃げない。いや、逃げられない。
Ωが目の前まで迫り、右手が動いた。目に映るすべてを破壊する恐ろしい手。それが今、獲物を求めて振り上げられた。これが振り下ろされるとき、彩華の命は終わるだろう。
空を切る音。
彩華は死を覚悟したのか両目を閉じた。しかし、いつまで経ってもその手が彼女に触れることは無い。
彩華がゆっくりと目を開くと、Ωの手は彼女に触れる直前で止まり、彼女を求めるように空をさまよっていた。
「なんで……なんでなの……お姉ちゃん?」
「――ッ!」
彩華の目の前には涙を流しながら問いかける少年の姿があった。
Ωの心はまだ壊れていない。寸での所で止まっている。今にも崩れてしまいそうなほどギリギリなところで。
「統也く――」
「余計なことをするな!」
Ωの手を取ろうとする彩華を痩身の研究者が引き留める。
「放してよ!このままじゃ統也くんが壊れちゃう!」
「それが良いんじゃないか!君もあのΩの力を見ただろう?心が壊れるくらい揺さぶれば、どれほどの力が出るか、楽しみだよ!」
狂気。まさにそれを体現したような男が彩華の目の前に立っていた。目の前の光景に顔を歪ませて笑い、そのギラギラと光る眼は一秒もこの惨状を見逃すまいと絶え間なく動いている。
「酷過ぎるわ!」
「君に言う資格があるのかッ?あの子をここまで追い詰めたのは他ならぬ君だろう!」
「――ッ!」
彩華は何も言い返さない。そのままΩの方へと顔を向けるが、再び顔を伏せると彼女は一歩も動かなかった。
「お姉ちゃん……」
Ωは悲しそうに目を細め、一歩下がった。彩華の微動だにしない姿を拒絶と受け取ったのだ。
「ふむ、大人しくなってしまったなぁ。どれ、もうひと押し」
細見の研究者が彩華へと距離を詰め、突然彼女の顔を叩いた。
男の力で叩かれて、彩華はその場に倒れてしまう。
「どうだΩッ?この女は私のもの。好き放題に出来るのは私だけだ!」
「止めろ……」
「まだ言うか!これならどうだ!」
細見の研究者は再び彩華へ平手を見舞った。彩華の頬が赤く染まる。
「止めろ……止めろ……」
「止めるものか!この女は私のものなんだからな!どうしようと私の勝手だ!」
細見の研究者の暴力は止まらない。その顔には血が浮かび、そして、瞳から一筋の涙が流れた。
「――ッ!」
それを見た瞬間、Ωの中の消えかけていた心が再び燃え上がった。
「お前ェェェェェェェ!」
怒りの咆哮を上げてΩが痩身の研究者に迫った。今の彼の力なら、難なく殺してしまえるだろう。だが痩身の研究者は逃げない。
Ωの腕が研究者の目前まで迫る――




