第九十三話 新しい感情
彩華と共に外に出た日から、Ωは彩華と積極的に話すようになった。表情も豊かになったこともあり、病院に来る前とは見違えるようだ。
それも全ては彩華に喜んでもらうためだった。Ωが喋ったり笑ったりすると、彼女は本当にうれしそうに笑うのだ。彩華に喜んでもらうためならΩは何でもした。
他人に対して全く心を開けなかった自分がなぜそこまで出来る、いや、しようと思ったのかは分からない。それを理解するには彼はまだ幼すぎた。
だが、その夢の様な時間が脅かされることとなる。Ωの担当が彩華から他の人間に代わることになったのだ。それは、彩華にしか心を開かないΩを違った環境に置くことによって、新たなデータを収集しようとする研究者たちの試みだった。そして、その試みは確かに成果を上げたと言えた。
なにせ、Ωに怒りという感情を芽生えさせることが出来たのだから。
「アァァァァァァァァ!」
彩華と引き離されると知ったΩは感情を爆発させ、今まで感じたこともないその感情をどうコントロールして良いか分らず、ただただ暴れまわった。数々の実験を経て、強靭な肉体と並はずれた力を得たΩの暴れっぷりは凄まじく、ベッドを放り投げ、壁に無数の穴を穿ち、そこはさながら嵐が押し寄せてきたかのようだった。
「ひどい……」
これ以上は流石に危険だと判断した研究員の一人が彩華を連れて戻ってきたとき、Ωを抑え込もうとしていた警備員たちは廊下に転がり、ある者は頭から血を流し、またある者は足が本来曲がってはいけない方向へ曲がってしまっていた。
「あの、これを統也くんが?」
とても信じられないという表情をする彩華に研究員が頷く。彼女には詳しいことは話しておらず、ただΩが暴れて手がつけられないので止めるのを手伝ってほしいとしか伝えていない。彼女としても子供がぐずっている程度にしか考えていなかったのだろう。それが、目の前の現実はあまりに想像とかけ離れていたため、なかなか受け入れることが出来ないのだ。
「お願いします」
Ωを止められるのは彼女しかいないだろう。研究員は懇願するように彼女にΩを止めるように頼んだ。このままΩを放っておけば研究どころかこの施設自体がなくなってしまう。
「わかりました」
彩華は意を決してΩの病室へ入って行った。入ってすぐに彼女の目に映ったのは、変わり果てた部屋と怒りのままに力を振るう少年の姿。
「統也くん」
彩華が声をかけると怒りに我を忘れていたΩの動きがピタリと止まった。
「お姉……ちゃん?」
彩華を見つめるΩの顔が見る見るいつもの幼さを残した少年の顔へ戻って行く。なんということはない、いたずらを見咎められた子供の顔だ。
その姿に彩華は安堵し、ズンズンとΩに近づいて行った。Ωはと言うと、まずい所を見られたとばかりに彩華に怯み後ろに下がって行く。だが、彩華はΩを逃がそうとはせず、彼を壁際まで追い詰めると、膝を曲げ、相手の頭の高さまで頭を下げ、顔を近づけ真っ直ぐに彼の目を見た。言い訳は許さない、子どもを叱る母親そのものだ。
「悪い子だね、統也くん」
Ωは目を合わせられず、顔は下を向き、視線をチラチラと上げて彩華の顔色をうかがっている。
「ちゃんとこっちを見なさい!」
彩華の言葉にビクンっと肩を震わせると、Ωは恐る恐る顔を上げた。
「悪いことをしたらなんて言うんだっけ?」
今まで怒られるという経験の無かったΩには分からない。彼の記憶にあるのは無視という静かで冷たい苦痛だけだ。
「どうしたの?」
「……」
Ωは答えない。いや、答えられない。
「はぁ~。悪いことをしたら『ごめんなさい』って言うの」
「ごめん……なさい」
「ちゃんと言う!」
「ごめんなさい!」
生まれて初めての叱咤にΩは縮こまってしまう。心に吹く冷たさはなく、激しい言葉が響き渡る。
視線を上げたΩの目に彩華の上がりかけた右手が映る。
ぶたれるッ――
しかし、歯を食いしばったΩに触れたのは痛みを伴う鉄拳では無く、優しく包み込む手の平だった。
「よく言えました。良い子良い子」
彩華は微笑みながら何度もΩの頭を撫でる。何が起こっているのか分からないΩはただただ混乱して頭を撫でられ続けた。
「お姉ちゃん、なんで?」
自分は怒られているたはずだ。それがなぜ頭を撫でられているのか分らない。
「ちゃんと『ごめんなさい』が言えたから」
彩華はΩを引き寄せると、そのまま彼を抱きしめた。
「お別れが寂しかったんだよね。お姉ちゃん、うれしかったな。でも、暴れちゃダメだよ」
優しく語りかける彩華の声が心地よく耳に広がって行く。心の中のモヤモヤしたものが消えていくのが分かる。
「わかった?」
「うん」
今回の一件から、研究者たちはΩから彩華を引き離すことを断念し、違う方法で彼のコミュニケーション能力を育てようと考えた。
しかし、その中で一人だけ、Ωの怒りの力に目を付けた者がいた。あの痩身の研究者だ。彼はΩが怒りに任せて発揮したあの爆発力をとても高く評価しており、もっとあの力を引き出す術はないかと考えを巡らせた。
そして一つの結論に至る。それはまさに神の悪戯としか言えないような偶然による産物だった。




