第九十二話 変化の兆し
出会い始めの頃は彩華の言葉にもほとんど反応を返さなかったΩだったが、一週間もすると彩華の言葉に何らかの反応を返せるようになっていた。
「統也君、今日は良い天気だし、外に出てみようか?」
彩華のその提案にΩは黙って頷いた。重症とは言っても四肢が不自由ということにはなっていなかったため、Ωは靴を履き替えて、彩華に付き添われながら病院の庭先へと出た。
いつも窓から眺めていただけの外へと出たΩは久しぶりの太陽の光に眩しそうに目を細めた。今まで自分が生きてきた外の世界はこんなに眩しかっただろうか。
「とりあえず、あそこの噴水まで行こう」
彩華に促され、Ωはゆっくりとした足取りで庭の中央にある噴水へ移動し、近くのベンチに腰を下ろした。
「いや~、気持ちいいね」
その言葉を表わすように彩華が伸びをする。その気持ちよさそうな姿を見て、Ωも見よう見まねで両手を上へ上げた。
「ぷっ、あはは、統也くん、全然気持ちよさそうじゃないよ」
彩華がΩを見て噴き出した。無表情で伸びをするΩの姿はとても滑稽だったに違いない。
「伸びはね、もっとこう、リラックスしたようにやるんだよ?」
リラックスしたようにというものの意味はよく分らないが、彩華のを見る限り、どうやら自分にはかなり難易度の高いものらしい。どうやったら出来るようになるのだろうか。
「あ~、統也くん、そんなに考え込まないでよ。伸びなんて考えてやるようなことじゃないよ。それより、せっかく外に出たんだから外の新鮮な空気を楽しまなくちゃ」
空気を楽しむというのは理解できないが、とりあえず彩華の真似をしていれば良いのだろう。息を吸って、吐いて、それを何回か繰り返す。これで楽しめているのだろうか?
「うん、統也くん、良い感じだよ。どう?外の空気は気持ちいいでしょう?」
「よく分らない……」
正直な感想を述べたΩだったが、彩華はその反応にとても驚き、目を大きく見開いている。
「統也くんが喋った!」
そう言えばΩは今まで一度も彩華の前で言葉を発したことは無かったかも知れない。それどころか、この病院に来てから、一度もきちんと喋ったことはない。ただ投薬をされてデータを取られるだけの生活には言葉は不要だったのだ。
「よかった!私、統也くんは重症だって聞いてたから、喋れないのかと思ってたよ」
彩華はまるで自分のことのように喜び胸をなでおろしている。なぜ赤の他人の自分のためにここまで喜んでいるのか理解できない。
「ねぇねぇ統也くん、私が誰だか言える?」
「彩華」
自分の名前がΩの口から出た瞬間、彩華は満面の笑みになり何度も何度も頷いた。
「そうそう彩華。でもね、私は年上だから彩華お姉ちゃんって呼ばれる方が良いな。ね、呼んでみて?」
「彩華お姉ちゃん」
「そう!よく出来ました!」
彩華が自分に飛びついて喜んでいる理由は分らなかったが、彼女が喜んでいると自分も心地よくなることにΩも気付いていた。
「う~ん、今日は良い日だね。統也くん、ちょっとあっちの方まで歩いてみようか」
彩華に手を引かれ歩く。早すぎず遅すぎず、彼女はこちらのペースに合わせて歩いてくれる。
「お、あそこが良さそうだね」
彩華に引かれてやってきたのは、大きな木の木陰の下だった。木の葉の隙間から光が射し、その間を風が通り抜け、なかなか心地よい空間になっている。
「いや~、ここにずっといたら寝ちゃいそうだね」
舌を出していたずらっぽく笑う彩華の姿はショートカットの茶髪と相まってなかなかに可愛らしい。
「統也くん、心配しなくてもきっと治るからね。それまで、私と一緒に頑張ろう!」
「……うん」
別に自分が特別な病気ではないことは分かっていたが、それでも返事をしていた。そうすれば彩華が喜ぶと思うと、なぜかそうしてしまうのだ。
「よし、じゃあお姉ちゃんと約束だ」
「約束?」
「そ、約束」
彩華は右手の小指を立てると、それをΩに向けてきた。
「統也くん、指切りって知ってる?」
「知らない」
「じゃあ教えてあげる。こうしてね……指を交差させて」
彩華に右手を取られ、小指を彼女の指に絡ませられる。
「指切りげんまん、嘘付いたら針千本飲~ます♪」
彼女が軽快なリズムでそう口ずさむと、絡ませた指を離した。Ωの手は少し名残惜しそうにその後を追った。
「はい、これで約束しました。統也くんは治る様に頑張らなくちゃいけません。破ったら、針千本だよ?」
ふふふ、と笑う彩華を見ていて、自然とΩもぎこちなくではあったが、笑顔になった。
「あ!統也くん笑った!」
彩華の目が先ほど初めてΩが喋ったときよりも大きく見開かれる。
「う~~~~、今日はほんっっっとうに良い日だね!」
彩華に満面の笑みが浮かぶのを見て、Ωもぎこちない笑顔を精一杯続けたのだった。
* * *
「Ωの様子はどうかね?」
白衣の男がもう一人の白衣の男に尋ねる。恰幅が良く、いかにも役職が上の人間という雰囲気を漂わせた男が坐っているのは高そうなソファーであり、そこは病院内でも一番高い場所にある、院長室だ。
「はい、経過はかなり順調です。先週からコミュニケーションのデータを取るために一般病棟へ移したのですが、そこで担当の看護師に心を開き、問いかけに対して何らかのアクションを返すようになりました」
いろいろな数値が書き込まれた報告書らしきものをめくりながら白衣の男が院長へ報告する。院長とは正反対に痩身で眼鏡をかけた神経質そうな男だ。
「おぉ、あのΩがかね。それは素晴らしい成長だ。これで一般人レベルでの精神面の安定が確認できたな」
「いえ、未だに心を開いているのはその看護師に対してのみです。もっといろいろな人間と接する機会を増やし、コミュニケーション能力の向上を図る必要があると考えます」
「ふむ、そうかね。まあ、それについては君に任せるよ。Ωを立派な超人にしてくれたまえ。近々この分野の権威の方もいらっしゃる。それまでに一定の成果を出しておかなければな」
「わかりました。では、Ωは来週から集団病室に移し、そこでの経過を観察することとします」
院長に丁寧に頭を下げると、痩身の白衣の男は部屋を出て行った。
「いいぞΩ。もっと成長するんだ」
一人部屋に残った院長はそう呟くと、椅子を回転させて窓の外へと顔を向け、外から帰ってきたΩたちを見降ろしたのだった。




