第八十七話 嫌な予感
「蓉!」
部屋に入った凛達の目にまず飛び込んできたのは、右腕の袖を真っ赤な血で染めた蓉の姿。彼は今、血の流れる腕を抑えながら床に座り込んでいる。
「蓉、何があったのッ?」
弟の惨状に凛が駆け寄る。その姿を見て安堵したのか、蓉は軽い笑顔を凛に返した。どうやら、見た目ほど重症と言うわけではないらしい。
「食事を終えて部屋に戻ったら、見知らぬ男の子が部屋にいて、その子、いきなり襲いかかってきたんだ。なんとか抵抗したんだけど、逃げられてしまった」
蓉の指差した先ではベランダに面した窓ガラスが割れ、風が吹き込みカーテンが靡いていた。
男の子?
嫌な想像が円の頭をよぎる。
「そう……動かないで。今、救急箱を持ってくるわ」
凛は大急ぎで部屋を飛び出して行った。そして、部屋に残されたのは円と蓉の二人だけ。
妙だな――
部屋を見回しながら円はそう考えていた。この部屋は人が争ったにしては綺麗過ぎる。蓉が座っていた場所には血の跡はあるが、それ以外は染み一つない。家具も整然としており、とても不審者に襲い掛かられた人間の部屋とは思えない。
この部屋、これではまるで――
「蓉、大丈夫か?」
突然の王と王妃の来室が円の考えを中断させる。どうやら、凛が彼らに賊の侵入を知らせたようだ。
「まあ蓉、腕に怪我を!」
王妃は血に染まった息子の腕を見て、慌てて駆け寄ってきた。血を流した蓉とは対照的に真っ青に青ざめている。
「これくらいなんでもありません。それよりも、すいません、自分が未熟なばかりに賊を逃がしてしまいました」
「そんなことは良いの。お前が無事で良かった」
王妃が愛しいわが子を抱きしめる。
「蓉、賊はこの窓から逃げたのだな?」
この京都を治める王である父親は冷静に賊が逃げた窓を眺めていた。本来なら息子の心配をしたい所だろうが、それでも民を統べる王。身内への心配よりも、王族を襲撃した不届き者を捕まえることを優先しなければならない。
「すぐに兵を率いてその不届き者をひっ捕らえに行く」
「父上、僕も一緒に――」
「ダメだ。その腕では馬に乗ることもままならないだろう。ここにいろ」
王はさっさと部屋を出ていってしまった。部下の兵に任せず、当主自らが先陣を切るのはやはり武の都堅要特有と言えるだろう。
それからほどなくして救急箱を持った凛が戻り、蓉の腕の応急処置を済ませ、皆で王が戻るのを待った。しかし、結局王は賊を見つけることが出来ず、歯がゆい思いのまま戻ってきたのだが。
「くそっ、賊はどこへ逃げたのだ?」
「アナタ、そう興奮なさらずに」
「う、うむ」
王妃に促され、王は額の汗をハンカチで拭いた。どうやら、王妃には頭が上がらないらしい。
「それにしても、白昼だけではなく夜襲までかけてくるとは、よほど王族に恨みを持っているようだな」
白昼と言うのはおそらく刹那のことだろう。どうやら、王は今回の賊と刹那を仲間だと思っているらしい。
「ちょっとお父様、今回の賊とあの彼は関係ないわよ」
「なぜそう言いきれる?」
「それは……」
流石にその賊と知り合いだからとは言い辛い。それに、もしその事実を知られてしまえば、もっと対戦が難しくなってしまう可能性がある。
「なぜかは知らんがあの罪人に入れ込んでいるな。だが、あの罪人の命も風前の灯火だ。王族の命を狙おうとした罪、仲間の分まできっちりとその命で償ってもらおう」
「だからこれはアイツのせいじゃ――」
凛が父親の言葉に異を唱えようとしたその時、蓉の部屋の扉が乱暴に開かれ、甲冑を身にまとった兵士が飛び込んできた。
「当主様!」
「なんだ騒々しい?」
兵士はよほど急いできたのか、顔にびっしりと汗を浮かべている。賊を取り逃がして機嫌の悪い王はぶしつけな兵士に厳しい視線を向ける。
「ぶ、無礼をお許しください。しかし、一刻も早くお伝えせねばと……」
「だからなんなのだ?」
「蓉様を襲おうとしたあの罪人が……」
皆の注目が一気に兵士に集まる。
それは刹那のことに違いない。何やら嫌な予感がする……。
「罪人がどうした?」
「だっ……脱走しました!」




