第八十六話 迫る期限
「どうしよう、時間が……」
凛がそう呟きながら自分の部屋をグルグルとまわり続け、もう部屋を何周しただろう。朝からずっとこの調子で動き続けていたために、円も、当の本人でさえも思い出せないくらい回っている。
彼女が自宅に戻ってからすでに二日。あれから何度か父親に決闘の交代を頼んでいるが、その度に断られ続け、すでに決闘は明日に控えてしまった。
「少し落ち着いたらどうだ?」
凛とは対照的に落ち着きを掃った円はのんきに毛づくろいなどしている。その姿が余計に彼女を苛立たせた。
「落ち着いていられるわけないでしょ!もう明日なのよッ?円は心配じゃないのッ?」
まくしたてるようにしゃべり続ける凛を円は冷ややかな目で見やると、一度立ち上がり少し態勢を替えて再び座り込んだ。
「慌てても事態が好転するとは思えん。機を待つしかないな」
「もういい。もう一回お父様に直訴してくる」
凛は足を踏み鳴らしながら部屋を出て行った。
静かになった部屋で円は一人また毛づくろいを始める。
凛は気付いていない、円が今朝からずっと毛づくろいをし続けていることを。いや、当の本人でさえ、落ち着きなくずっと自分の毛をいじり続けていることに気付いていないのだ。
事態は一向に好転しない。
* * *
「はぁ」
決闘を明日に控えた昼過ぎ。あれから凛達の音沙汰は無く、刹那は一抹の不安を抱えていた。彼らのことを疑っているわけではないが、さすがに段取りなどの連絡もないと心配になってくる。
「本当に大丈夫なんだろうな?」
円が付いているから見捨てられるということはないだろうが、このまま当日を迎えるのは勘弁願いたい。
「面会だ」
「――ッ!」
もしや凛たちか?
刹那は待っていたとばかりにそちらの方へ体ごと向き直り、そして現れた人物を見て落胆の表情を浮かべた。
「またアンタか」
「随分な物言いじゃな」
聯賦は今日も白衣を身にまとい、いかにも胡散臭い笑みを浮かべながら刹那の前に現れた。どうせまた賄賂を渡して入ってきたのだろう。
「その様子では、まだ助けの連絡は来ておらんようじゃな」
見事に良い当てられてしまい、刹那は思わず動揺してしまう。それが顔に出ていたのか、聯賦はまた嬉しそうにニンマリと笑うと、刹那が入っている檻の鉄格子を眺め始めた。
「ふむ、これならそう時間は掛からんじゃろう」
「は?」
この爺さんが何を言いたいのか分からない。
そして次の瞬間、刹那は聯賦の口から出た言葉にさらに混乱する。
「刹那君、今夜わしはもう一度ここに来る。君を助けにな。じゃが、一緒に逃げるもここに残るも君次第じゃ。円君を信じておるのならここに残るのもいいじゃろう。じゃが、逃げられるとすればそのチャンスは今夜だけじゃ。よく考えておくんじゃな」
「おい、ちょっとッ!」
聯賦はそれだけ言うとさっさと帰ってしまった。刹那には詳しく聞く暇すら与えられない。
刹那はあの胡散臭い年寄りが残した言葉を頭の中で反芻した。
逃げるも残るも自分次第。だが、逃げられるのは今夜が最後……。
もちろん円のことは信用している。最初こそ心臓を手に入れるため、と厄介なことを言っていたが、幾度となく共に危険を乗り越えてきた今となっては、刹那にとってなくてはならない存在だ。
円ならきっとなんとかしてくれる――
刹那は円を信じて疑わなかった。
* * *
「別に付いてこなくても良いのよ?」
「なに、ちょうど暇を持て余していた所だ」
凛と円は長い廊下を、ある部屋を目指して歩いていた。そこは凛の弟、蓉の部屋。日が沈み、決闘を明日に控えた今、もう悠長なことはしていられない。凛は蓉に試合を代わってくれるように直談判に行くつもりだ。
円もただ機を待つだけの姿勢には痺れを切らしていたため、何ができるというわけでもないが、彼女に同行してきたのだった。
しばらく歩いた後、凛が一つの扉の前で立ち止まる。
「ここなのか?」
ドアの装飾などは他の部屋のものとまったく同じで、始めて来た者にはとても見分けがつきそうにない。
「蓉?いる?」
円の問いに答えることなく、凛がドアをノックする。が、反応はない。いないのだろうか。
「仕方ない、出直そっか」
凛と円が踵を返して部屋に戻ろうとした時だった――
静かな廊下に、破砕音が響き渡った。
「――ッ!」
思わず円たちが振り返る。
今の音は部屋の中からだ。
音の大きさから花瓶などの小物が割れた感じではない。
いったい中で何が?
凛が弟の部屋の扉を乱暴に開け放つ。




