第七十五話 勝利の理由
「では、お客さんに選んでいただきましょう」
錬が包丁を完成させてそれぞれの作品が出揃った後、頑徹の工房に先ほどの中年女性を呼び出し、それぞれの作品を見てもらうことになった。女性は自分用に作られた二本の包丁を交互に見て、感嘆の声を漏らしている。
「どっちにしようか悩むねぇ」
見た目ならば明らかに鍛冶屋の男の方に分がある。それくらい、あの刃文は見事なものだ。それに比べて、錬の包丁はよく言えばシンプル。悪く言えば何の変哲もないただの包丁だった。
「実際に触ってみてくださいっす」
錬に促され、女性が包丁を手に取る。鍛冶屋の男の包丁は持ち上げて光に当ててみると、あの刃文が見事に輝いていた。対して錬の包丁は特に何の変化もない。
刹那の素人目から見ても相手の包丁は見事なものだ。普段目にする包丁とは違う、一種の芸術品のように見える。
このままでは負けてしまうのではないか。刹那の脳裏に最悪の結末が浮かんだ。
「う~ん」
女性が腕を組んで悩み始める。どうやら、何かが引っかかっているようだ。
時間がただ静かに過ぎていく。もう十秒近く経っただろうか?その空気の重苦しさはまるで三十分ほど待っているかのようだった。
「決めたわ」
女性がそう言って頷く。
「それではどちらが良いか選んでいただきます」
一同に緊張が走る。泣いても笑ってもこれで最後。これで錬の包丁が選ばれなければ、この工房はあの鍛冶屋の男のものになってしまう。
錬の包丁を選んでくれ――
刹那は心の中で祈った。きっと錬も同じことを祈っていただろう。
「私はこっちが気に入ったね」
女性が包丁を指差した。選ばれたのは――
「馬鹿な!」
目の前の結果を受け止められない者の声が上がる。その声の主は、鍛冶屋の男だった。
「なぜそんな不恰好な包丁に私の作品が負ける?これは何かの間違いだ!」
目を見開き、口角沫を飛ばしながら抗議するその姿には、もう猛禽類の鋭さはない。まるで、怯える鶏のようだ。
「見苦しいぜ。アンタは負けたんだ。素直に認めな」
「なぜだッ?あんな不恰好な包丁より私の包丁の方が美しかったはずだ!」
女性にすがる様に鍛冶屋の男が近づく。女性は錬の包丁を持つとニッコリと笑い、選んだ理由を語り出した。
「確かにそっちの包丁の方が綺麗だったんだけど、こっちの包丁の方が使いやすかったんだよ。この包丁すっごく軽いんだ。そっちの包丁は綺麗なんだけど重くてね。たくさん野菜切る時とかは軽いほうが腕が疲れなくていい。やっぱり、道具は使いやすくなくっちゃあ」
「そ、そんな……」
何か反論を、と考えていたのだろうが、大事そうに錬の包丁を持つ女性の姿に嘘はない。その様子を見ていた頑徹が静かな声で声で言う。
「見た目だけに拘り過ぎたな兄ちゃん。アンタは自分の包丁のことばっかり考えて、お客さんのことを全く考えてなかった。職人がまず考えるのは道具の出来じゃねぇ、使う人間だ。うちのチビは腕ではアンタに劣ってたかもしれねぇが、職人として大事なもんはアンタに勝ってたみたいだな」
鍛冶屋の男はその場にがっくりと崩れ込んでしまった。錬の完全勝利だ。
「やった!」
刹那がまるで自分のことのように飛び上って喜ぶ。無理をしてまで飛旋を振った甲斐があったというものだ。
「錬、やったな!」
錬の両肩を掴んで揺らすが、錬の反応は薄い。
「刹那さん、俺、勝ったんすよね?」
勝利の実感が湧かないのか、錬はその場で呆けたままだ。
「あぁ、そうだよ。完全勝利だ!」
「じゃ、じゃあ、工房は取られずに済むんですよね?」
その瞳に段々と喜びの色が浮かんでくる。そして――
「そうだよ!」
「ぃやったぁ!」
先ほどの刹那に負けないくらいの勢いで錬が飛びあがる。大事な工房を自分の手で守ることが出来たのがよほど嬉しいのだろう。
「やったな、錬」
その声に振り返ると、ぐしゃぐしゃの毛に首にネギを巻いたままの円の姿があった。本人は務めて平静を装っているが、首に巻いたネギで全て台無しだ。
「残念ながら俺は最後まで見守ることはできなかったが、この勝利はお前の不断の努力によるものだろう。胸を張れ」
「円さん……」
「円……」
円の言葉に錬が感極まったようで目をこすっている。なんとも感動的な光景である。
そこで刹那は考える。これは言うべきではないのではないか。自分が黙っていればそれで済むのではないのではないか。だが、言わずにはいられない。いや、言わなくてはならない。
「カッコつけるのはネギ取ってからにしろよ」
次の瞬間、工房に刹那の悲鳴が響き渡ったのは言うまでもない。
「すげぇ」
炎に包まれる刹那を眺めていた錬に、背後から怒声が飛んでくる。
「おら、チビ!さっさと片付けねぇか!いつも言ってるだろうが、仕事は片づけ終わるまでが仕事だ!」
「は、はいっす!」
頑徹に檄を飛ばされ錬が慌てて道具を片づけ始めるが、その顔は少しニヤついている。そして、チラチラと頑徹の方に視線を送ってはまた手元に戻すということを繰り返している。
「なに笑ってやがんだチビ?気持ちワリィな」
「あの……師匠、交代する直前、俺のこと名前で呼んでくれましたよね?」
「あぁ?そうだったか?」
頑徹がポリポリと頭をかきながらそっぽを向く。この様子では、本人はしっかりと覚えているようだ。
「そうっすよ。あれはつまり、俺のことを一人前って認めてくれたって――」
「一人前だぁ?百年早ぇ!」
「いてぇ!」
頑徹の拳骨が錬の頭に落下した。どうやら、勝負には勝ったが、彼が一人前と呼ばれるのはまだまだ先のようだ。




