第七十四話 準備は整った
炉が熱を放つ。その中は赤を越し、高温を示すように白みがかっている。
準備は整った。これなら、十分に鋼を熱することが出来る。
「やりましたよ刹那さん!炉が――ッ刹那さんッ?」
特大の風を起こした刹那は右肩を抑えて蹲っている。どうやらついに限界が来てしまったらしい。
「ボサっとしてんなチビ!」
刹那の様子に動揺した錬の意識を頑徹がすぐに引き戻す。そう、今は時間が惜しい。炉の中が温まっている今のうちに鋼を熱しなければならない。
頑徹が鋼を炉の中に入れた。じっくりと、炉の熱が鋼に伝わっていく。光沢を帯びた表面が徐々に赤みを帯びていった。慌ててはいけない。この時間がどれほど長く感じても、適温になるまで気は抜けない。鍛治は温度との戦いだ。中途半端な熱し方では良い物は出来ない。
それからどれくらいの時間が経っただろう、頑徹と錬は一言も口を利かずその時を待った。そしてついに――
「よし」
頑徹が鋼を炉から出した。炉と同じように赤を超えた白みを帯びたそれを金床の上に置く。ここからは先ほどとは逆の時間との勝負。鋼の熱は刻一刻と下がっていく。そうなれば鍛えづらくなるばかりでなく、質の悪い、脆いものになってしまう。しかも、一度炉から出した場合再加熱は出来ない。迅速に鍛えねばならないのだ。
「チビ、抑えててくれ」
「はいっす」
片手の使えない頑徹に代わって錬が抑え、残った片腕で頑徹がハンマーを持つ。そこは長年ともにやってきた者同士。利き腕ではなくともピタリと息の合った動きで、鋼を打っていく。
「よかった……」
二人が無事に鍛治を始められたことを見届け、刹那はホッと安堵の息を漏らす。これで何とかなるはずだ。
カーン、カーンという等間隔で鋼を打ちつける音が工房に響いている。刹那は目をつぶってその音を聞いた。とても軽快な、小気味よい音。
カーン、カー……ガンッ
が、突然その音の感覚が乱れた。刹那が目を開くと、そこには苦しそうな頑徹の顔と心配する錬の顔。頑徹の左手にはハンマーは握られていない。
「おやおや、慣れない手で無理をするから限界が来てしまいましたか?」
「頑徹さん!」
「大丈夫だ。ちょっと手が疲れてるだけだからよ」
左手が震えている。素人目にも「ちょっと」ではないのは明白だ。
「それ、もうひと頑張り――っ」
掴んだハンマーがその場に落ちる。左手に力が入らないのだろう。しばらく休まないとこれは無理だ。
「頑徹さん、しばらく休んだ方が……」
「そんな時間はねぇよ兄ちゃん。こうしてる間にも鋼はどんどん冷めてんだ。一度冷めたらもう温め直せねぇ。時間がねぇんだ」
「でもその左手じゃ……」
「大丈夫だ。曾爺さんからの工房が懸かってんだ、無理やりにでも動かすさ。チビ、準備しろ」
だがハンマーを持った手は中々上に上がらない。少し持ち上げては落とし、持ち上げては落としの繰り返しだ。
「師匠……」
「どうやら、もう作業は無理なようですね」
鍛冶屋の男の無慈悲な声が工房に響いた。
「待ってくれ、まだやれる」
「何を言っているんですか。ハンマーを持つことすら出来ていないではないですか?大人しく負けを認めてください」
「くっ」
頑徹にはこれ以上の作業は無理だ。せっかく炉が温まり、鋼を打つことが出来るというのに、勝負ができない。円の炎が、刹那の風が、頑徹の腕が無駄になってしまう。工房が……取られてしまう。
これで終わりなのか――
その場にいる誰もが諦めかけた時だった――
「まだ負けじゃないっす」
錬がまっすぐに鍛冶屋の男を睨む。
「どういうことです?鋼が打てないのなら勝負にならないでしょう?」
「俺が師匠の代わりに打ちます」
「チビ、昨日言っただろ、おめぇには任せられねぇ」
たとえハンマーが握れなくなっていようとも頑徹の意思は変わらない。だが、それは錬も同じだった。
「やらせて下さい。必ず……勝って見せます!」
鍛冶屋の男から頑徹へと移ったその瞳には昨日の迷いはない。ただまっすぐ、そして炉の火のように燃える、決意の炎があった。
「――おめぇ……わかった、錬、後は任せた」
弟子の真っ直ぐな瞳に頑徹は何かを感じ取ったのだろう。頑徹はそれだけ言うと炉から離れた。もう自分に出番はないという意思表示だ。
「ふん、まあいいでしょう。誰が相手だろうと結果は変わりません」
許可を得た錬はさっそく作業に取り掛る。ハンマーを振り上げ、少しでも頑丈なものになるように、それを叩く、叩く、叩く。
叩き終わったそれを、また炉で温め、今度は水につける。ジュウッと言う音とともに鋼が一気に冷え固まる。そして、それを時間をかけてゆっくりと加熱していく。こうすることで、粘り強い、頑丈な鋼になるのだ。
まるで流れるようにその作業をこなした錬は、最後に砥石で刃を研ぎ、ついに包丁を完成させた。
これで鍛冶屋の男と錬、両者の作品が出そろった。




