第四十五話 旅の記憶
「厳磨さん……」
「やっと吹っ切れたよ。君たちには迷惑をかけたね」
刹那たちの方へと振り返った厳磨の顔は、刺のない、どこかやさしい顔つきだった。もともとはこんな穏やかな顔をする人だったのだろう。
「これからどうするんだ?」
「息子にも言われてしまったからね。真っ当に働くことにするよ。ただ、水神が今回のことで人間を恐れなければ良いのだが……」
「あ~、その点なら大丈夫じゃないかな」
刹那は湖の方を見た。水神はまだ静かに寝息を立てている。
「そうなのかい?それならいいんだが……」
それから、厳磨はまだ気絶していた猫背の男を担いで、静かにその場を去って行った。残されたのは刹那と円だけだ。
「刹那、なぜ水神が人間を怨まないと分かる?」
「ん?そこら辺もきっとあの人が説明してくれるよ」
「あの人?」
「あ~、そう言えば、まだちゃんと説明してなかったな。俺の傷を治してくれた人なんだけど――」
刹那は自分が撃たれてから戻ってくるまでのことを円に話し始めた。
* * *
俺はこのまま死ぬんだろうか――
銛に腹を貫かれ、そのまま湖に落下した刹那は、水面に射す太陽の光が遠ざかっていくのを眺めながらそんなことを考えていた。銛は半分ほど突き刺さった状態で止まっており、引き抜くのは難しいだろう。それに、引き抜こうにも体が動かない。
傷口から流れる血液が視界を赤く染めていく。身動きがとれず、ただ沈んでいくだけの体には不思議と痛みが無い。もしかしたら、痛覚もマヒしてしまうほど衰弱してしまっているのだろうか。
せっかくだから、これまでの旅の記憶でも思い浮かべてみるかな――
刹那には走馬灯に使うような昔の記憶は全くない。その代わりと言っては何だが、ここまで旅してきた記憶がある。むしろ、記憶喪失の刹那にとってはそれが人生の記憶と言っても過言ではない。
円は大丈夫かな――
旅のことを考えると、真っ先に頭に浮かぶのは、旅のお供のあの黒猫のことだった。自分の心臓を手に入れるためなどと言って、ずっと自分の旅に同行してくれていた円。幾度かの死線をともに潜り抜けてきた相棒。
自分の旅の記憶は円との記憶であると言っても過言ではない。
その旅もここで終わりを迎えようとしている。結局、自分の記憶が戻ることはなかった。まあ、これから死ぬ人間に記憶も必要無いだろう。せめて、円に礼を言ってから死にたかったが……
「まだ終わりではありませんよ?」
なんだ?空耳だろうか?今、人の声が聞こえた気がした。まさか、こんな水中で人の声が聞こえるわけがない。
「アナタの旅はまだ終わるわけにはいかないのです。アナタ自身だけではなく、円のためにも」
空耳ではない。確かに声が聞こえる。いったい誰だ?どうやって声を掛けてきている?
「アナタの傷を治しましょう。そして、戻ってあげて下さい。彼の元へ」
真っ赤だった刹那の視界が突然白く光りだした。その光はどんどん大きくなり、ついに刹那の体の全体を覆ってしまう。
温かい――
水の中だというのに、刹那の全身をまるで太陽の光のような温かさが包み込む。
アナタは一体?
* * *
「てなことがあってさ。気付いたら湖の淵に戻ってたわけだ」
刹那の説明を円は口を挟まず黙って聞いていた。瀕死の傷を一瞬で治してしまうあたり、もしや刹那の言っていた湖の女神なのか?
「ふむ。だが、一体誰なんだそれは?」
「それは私の口から直接説明しましょう」
「ん?」
水面から聞こえてきた声の方へ目を向けると、先ほどの少年と同じように、一人の女性が立っていた。髪は金髪で腰まで伸びており、日の光が当たって絹のように輝いていた。顔は整っていて、目じりの下がった眼と頬笑みを湛えた口元が優しい印象を与える。彼女は白いワンピースに身を包み、その白い肌と相まって、まさに純白という印象を受けた。
「ほわ~、綺麗だな。そんな姿だったんだ」
「刹那知っているのか?」
「今話してた俺を助けてくれた人だよ。まあ、あの時は声だけだったけどな」
「あの時は突然でしたから。それで、先ほどの話ですが、水神には私から説明しておきますね。彼女も今子育て中で、とても神経質になっているんですよ。だから、襲ってしまったことは許してあげて下さいね」
女性は優しくほほ笑んだ。先ほどの顔も美しく魅力的だったが、ほほ笑むとますますその美しさが際立つ。
「水神を説得するだと?もしや、先程の厳磨の息子を出したのもお前か?」
「はい。彼は父親が心配だったようでいつまでもここに残っていましたから。私の力を少しだけ貸してあげたのです」
「貴様、いったい何者だ?」
円の鋭い視線が女性に向けられる。それに臆することも無く女性はまた笑みを浮かべると、静かに話しだした。
「そういえばまだ名前を言っていませんでした。私の名前は瀏蘭。この龍降湖を守護する者。そして刹那、貴方に新たな刀を授ける者です」




