第四十話 真夜中の訪問者
「こんな追いかけっこをいつまでも続けても無駄だろう」
「お前を捕まえて、その髭を全部剃ったら終わりにしてやるよ」
「それは無理な相談だな」
刹那と円の追いかけっこは五分近く続いていた。刹那が左から迫れば円は右に避け、右から追えば左に下がりといった感じで、一向に決着がつく気配は見えない。
と、円が洗面所の方へと逃げ込んだ。あそこは袋小路。これでついに決着が――
「待て、円――ん?」
今、刹那の目の前には円と、奇妙な光景が広が同居していた。
まず、窓が開いていた。おかしい、寝る前に閉めたと思うのだが?
そして、もうひとつ。圧倒的におかしいことがある。それは――
「アンタ、誰?」
刹那の目の前には覆面をした人物が立っている。身長は低く、百四〇センチくらいだろうか。少し猫背気味で、もともと低い背がもっと低く見える。そして、何よりも目を引くのは両手に着けられた獣の爪のような鉤爪だろう。刃の部分が窓から入る月明かりを反射して鈍く光っている。
「うわっ」
刹那が状況を理解するよりも早く、相手の鉤爪が刹那の右腕をかすめた。
反射的に半歩引いたおかげで躱すことが出来たが、反応が遅れれば腕に大きな切り傷が出来ていただろう。
「何するんだッ?」
突然の暴挙に刹那が怒りの声を上げるが、もちろん相手は答えない。そして、返答の代わりとばかりに無言で切りかかってくる。
「きゃぁッ」
状況を確認しようと中まで入ってきた従業員の女の子の悲鳴が響く。一瞬、刹那の関心がそちらに向いた。相手はその隙を見逃さない。
振り上げた爪が刹那めがけて振り下ろされる――
「危ない!」
女の子が叫ぶ。何か防ぐものは?
とっさに、手に持っていた枕――円をこれではたこうとしたのだ――を前に出した。だが、これでは到底防ぎようがない。 が、刹那に己の選択の失敗を悔いている時間はない。このままこのやわらかい枕を裂いて、凶爪が自分の顔を切り刻むだろう。
「ぐっ」
苦悶の声が部屋に響いた。しかし、それは刹那のものではない。
とっさに目を閉じた刹那が目を開くと、そこには、相手の振り上げた腕に噛みつく円の姿。
「円!」
「何をボーッとしてるんだ!お前はその子を安全な所へ!」
円は、相手の腕にしがみ付いたまま刹那に叫んだ。それを聞いた刹那は後ろに下がり、硬直してしまっている女の子を部屋の外へと連れ出した。
「あ、あの、円さんが!」
「大丈夫。俺らがいる方がかえって邪魔になる」
部屋に戻ろうとする女の子を制止しながら、刹那は呼吸を整えた。
こうは言ったものの、やはり円一人では心配だ。
「俺は戻る。君は、下に行って親父さんを呼んできてくれ」
それだけ言い残し、刹那は部屋へと飛び込んだ。中では円が相手の両手を器用に避け続けていた。決して相手の繰り出す速度が遅いわけではない。ただ、円の反射神経がずば抜けているのだ。加えて今は夜、夜目の効く円には格好の時間帯と言える。
避けては噛みつき、避けては噛みつき。体躯の差はかなりあるのだが、円はそんなもの全く意に介さずに応戦している。伊達に刹那と出会う前まで一人で旅をしていたわけではない。修羅場もくぐってきたのだろう。
「これでも食らえ!」
援護しようと刹那が近くにあった花瓶を相手目がけて放り投げる。だが、相手の鉤爪にあっさり弾かれてしまう。
その存在に気付いた円の怒声が上がる。
「何やってるんだ刹那!ひっこんでいろ!」
「お前だけ危ない目に遭わせるわけにはいかないだろうが!」
「神威がないんだぞ!お前じゃ無理だ!」
「やってみなきゃわかんねぇだろうが!」
言い争いをしているうちに、相手が標的を刹那に絞ってきた。戦う術を持たない刹那の方が有利に戦えると踏んだのだろう。
刹那の胸にねじり込むようにして相手の右腕が伸びる。
「刹那!」
「ふぉ!」
伸びた腕は刹那の胸の少し前で停止し、鉤爪は胸の数ミリ前で止まった。刹那が見事に受け止めたのだ。腕が振るえるが、この手を放すわけにはいかない。
「あ、あぶねぇ」
「油断するな!」
余ったもう一方の腕が横薙ぎに振りかぶられる。
「く、このっ」
刹那ももう一方の腕で相手の腕を押さえた。
「おぉ」
その鮮やかさに、思わず円も声を上げる。
「ど、どうだ円、見たかッ?」
相手の両腕をガッシリと掴み、刹那が円の方を見る。相手は力ずくでねじ込もうと、胸の前の腕に力を込めている。だが、その判断が命取りだった。
「よくやった刹那。そのまま抑えていろ」
円の瞳が真紅に染まる。
「――ッ!おい!円!こんな所で!」
「安心しろ、全部は燃やさん」
「馬鹿ッ!そうじゃなくて!」
刹那の声も空しく円の瞳が全て紅く染まった。そして――
「燃えろッ!」
「うぉぉぉ」
相手の上半身が炎に包まれる。予期せぬ事態に体を揺すって火を消そうとする侵入者だが、円の炎は纏わり着くように燃えているため消えることはない。
「ふっ、見たか。刹那、そろそろ――」
円が得意そうに刹那の方に目を向けると
「あっちっぃぃぃ!」
燃えていた。
床に転がり回り引火した火を消そうとしている。相手が燃えたことで腕を握っていた刹那の方にも火が行ってしまったようだ。
「馬鹿野郎!ちゃんとコントロールしとけ!」
「馬鹿とは何だ!先に言わないお前が悪いんだろうが!」
「言う前に火着けただろうが!」
罵声を浴びせ合う二人を尻目に、男が窓の方へと走って行った。どうやらこの隙に逃げようと考えたらしい。
言い争いをしていた二人は、どうしても反応が遅れてしまう。
「あっ」
「待てッ!」
追いかけようとする二人の目の前で侵入者は振り返ると、くぐもった声で一言だけ呟いた。
「お前ら、さっさとこの村から出ていけ」
そして侵入者は窓から飛び降り、夜の闇の中へと消えていった。
「あいつ!」
「無駄だ刹那。もう見えなくなってしまった」
円の言うとおり、侵入者は二階から飛び降りたにもかかわらずすでにその姿は見えなくなっていた。今から外に出ても見つけることは出来ないだろう。
「あいつ、なんだったんだ?」
「分からん。ただ、この村から出て行けと言っていたな。刹那、お前何か心当たりは?」
「ない。円は?」
「俺も無い」
刹那が外を見ると、何事も無かったかのように静まり返っていた。まるで先ほどまでのことが夢か何かであったかのようだ。
「あの、大丈夫ですか?」
部屋に入ってきた女の子が刹那たちに声を掛けてきた。その後ろには店の主人も立っている。
「大丈夫、服が焦げたくらいだよ。そっちは大丈夫?」
刹那が焦げた袖を女の子に見せながら笑う。部屋は二人の追いかけっこと予期せぬ侵入者によって荒れてしまったが、目立った怪我がなかったのは不幸中の幸いだろう。
「大変!火傷に効く薬あるから持ってきます!」
刹那の服を見た途端、女の子は慌てて下へと走って行ってしまう。
「こりゃ酷いな。お客さん、何があったい?」
主人が部屋を見回しながら刹那に尋ねる。
「へんな奴がいきなり部屋に入ってきて襲ってきやがったんですよ」
刹那も部屋を見回しながら答える。もっとも、荒れているのは殆どが身内による被害だったのだが……。
「ホントかいッ?その火傷もそいつにやられたのかい?」
「は、はあ。まあそんな所で……」
円の力のことと、自分達が追いかけっこをして荒らしてしまったことは黙っておいた。
「それにしても大変な怪我がなくてホントによかったよ。日が昇ってからその不審者のことは自警団に言うとして、こりゃ、この部屋の防犯も強化せんとなぁ」
主人は腕を組んでぶつぶつと独り言を言い始めた。おそらく今後の防犯について考えているのだろう。部屋が滅茶苦茶になったことよりもまず刹那の心配をしてくれたり、夜中にも拘わらず、火傷の薬を取りに行ってくれたりと、この主人といい、従業員の女の子といい、ここの人たちはかなり良い人たちだ。
「持ってきましたよ!」
女の子が息を切らしながら刹那たちの部屋に入ってきた。
その手には、火傷によく効くらしい塗り薬の瓶が握られている。




