第百七十二話 長髪の男
「なんだって?」
何を言われたのか良く分からなかった。刀をこっちによこせ?刀ってのはつまり、神威のことか?なんなんだ?新手の盗賊か?
「早くしろ。お前には考える余地はない、おとなしく神威を渡せ」
「――ッ!」
神威のことを知ってる?何者だ?ただ髪の長い兄ちゃんというわけではないのか。
「お兄ちゃん?」
「下がってろ統也」
統也を庇う様に自分の後ろに移動させる。この相手は危険だ。刹那の本能がそう告げていた。
「嫌だ、と言ったら?」
「寿命が縮むだけだぞ?」
男が腰に下げた刀に手をかける。
刹那は反射的に神威に手をかけ刀身を抜いていた。
そして、次の瞬間――
「うぉッ?」
刹那がとっさに抜いた神威が切りかかってきた男の刃を胴の目の前で受け止める。危なかった。もしあと数秒遅かったら、体に大きな切り傷が出来ていただろう。
「ほう、今のを受けるか」
「ある程度の修羅場はくぐって来てるんでね」
口ではそう返すが、居合の形を取った男の太刀筋は目に見えず、ほとんど運と本能で受け止めたようものだ。
「お兄ちゃんッ?」
「離れろ統也!絶対に手を出すな!」
刹那は統也を出来るだけ自分たちから遠ざけた。統也も素直にそれに従う。
この男は危険だ。統也が加勢しようとすれば、おそらくこの男は何の躊躇もなくこの子に切りかかる。それだけは絶対に避けなければ。
「良いのか?貴重な戦力だろう?」
「子供に頼るほど落ちぶれちゃいない」
この男、統也の力のことまで?一体何者なんだ?
「そうか。その判断が誤りでないと良いがな!」
また居合が来るかと思ったが、男は刀を完全に抜いてしまうと、それを間髪入れずに刹那に振るってきた。
男の剣撃はまるで左右から吹き荒れる吹雪のようだ。右を弾けば左、左を弾けば右と休みなく浴びせかけられる攻撃に刹那は防戦一方、このままではいずれ押し切られてしまう。一度距離を置かなければ。
「だけどッ……」
距離を置こうにも、こう攻め続けられては下がる機会がない。下手に動けば、その隙を突かれてあっという間にやられてしまうだろう。こうなったら、一か八かッ――
刹那は心の中で神威の変わる姿を想像した。そして、神威が段々とその姿を真紅に染めていく。
だが――
「遅い!」
「――ッ!ぐぁッ」
「お兄ちゃんッ?」
神威が紅煉に変わりきる前に男の蹴りが刹那の腹を捕らえた。相手の刀の方に気を取られていた刹那は全く防ぐことが出来ず、そのまま後ろへと蹴り飛ばされてしまった。
「攻撃は刀だけだと思ったか?甘い、甘すぎる」
「う……るせぇ」
うずくまって腹に手を当てる。力が入らず上手く喋ることが出来ない。今の蹴りのせいで手から離れた神威が地面に転がっている。
男は好機と見たのか無防備になったこちらに近づいてくる。応戦しなければ。だが、こちらも先ほどの攻撃のせいで思うように体が動かない。
まずいな、早く神威を拾わないと……待てよ、そうだ!この距離からなら、試してみたことはないがアレが出来るかもしれない。
「どうした?まだ動けないか?」
男が一歩、また一歩と近づいてくる。
まだだ、まだ早い――
刹那は逸る気持ちを必死に抑え、男の動向を見守った。
「どうやら本当に動けないようだな。仕方ない、終わりにしよう」
目の前に男が来た。
相手がトドメを刺さんと大きく振りかぶる――
「死ね――ん?」
「お兄ちゃんをいじめるな!」
振り下ろされた男の刀を統也が右腕の変形させた鎌で受け止めていた。
「小僧、お前には用は無い!」
刀を受け止められた男が右足で統也の腹を払う様に蹴り抜いた。体格の違いもあり、まともに蹴りを受けてしまった統也は横に吹き飛んだ。かなり力を入れたのか、転がった先で統也は起き上がれないでいた。
「統也ッ――テメェ!」
「大人しくしていれば良いものを。さて、次は貴様だな」
一瞬、統也へ視線を向けた男に隙が生じる。刹那はその一瞬を見逃さない。
「くらえ!」
「何ッ?」
刹那の掛け声と共に神威はその姿を飛旋に変え、その切っ先から突風が吹き荒れた。その風は刃となって男を襲う。
「くっ」
刀で防御した男だったが、それでも全てを受けきることは出来ず、二、三歩後ずさり、体にいくつかの切り傷を残す形となった。
「へへ、どうだ?触ってなくても姿は変えられるんだぜ?」
「見事だ。そこまで使いこなしているとは、正直驚いた……だがッ」
「ッ?」
一瞬、男の真紅の瞳がより一層その赤みを増した気がした。
そして次の瞬間!
「早く手元に持っておくべきだったな」
「――ッ!」
飛旋は一瞬にしてその姿を紅煉へと変えた。
なぜだッ?俺は紅煉にしようなんて考えてないぞ?
「これで終わりだな刹那……燃えろ」
男がそう呟いた瞬間、紅煉から炎が噴出し、刹那の視界は一瞬にして炎に包まれた。紅煉を中心とした炎の壁が男と刹那を隔てるように燃え盛る。
この男が飛旋を紅煉にしたのか?いや、それよりもなぜコイツは俺の名前を知ってる?
「お、お前、何者だッ?」
「……まだ分からないか?」
炎の壁が消え、その向こうで男が不敵に笑う。
「――ッ!」
自分はこの笑い顔を知っている。見るのは初めてだが、間違いない。それだけじゃない、あの紅煉から炎を出すときに発した言葉、そしてあの瞳、自分は知っている。いや、そんなはずはない。そんな事があって良いはずがない。
「俺は……」
止めろ、言うな――
「円だ」
もっとも聞きたくない言葉が男の口から発せられた。
「どうした?聞こえなかったか?俺は、お前と旅を共にしていた円だ」
「嘘だ!そうやって俺を動揺させようっていうんだろ?騙されないぞ!」
「ほう、少しは学習したようだな。だが、これが真実だ」
嘘だ、嘘に決まってる!こいつは俺を動揺させて、その隙に神威を奪うつもりなんだ。
「そんな見え透いた嘘、誰が信じるかよ!」
「信じる、信じないはお前の勝手だ」
信じたくない、だが、見れば見るほど、円と被る所がある。これは本当に……
「本当に円……なのか?」
「嘘を言っても仕方あるまい」
「なんでいなくなったんだよッ?あんな言葉だけ残して、心配したんだぞ!」
円に刹那が詰め寄る。円がこんな姿になって表れたのはかなりの衝撃だった。だが、今はそれよりも自分の前から姿を消した相棒に理由を問いたださなければならない。
「あの時はお前の心臓が必要だった。いや、必要だと思っていた。だが、もうそれも必要ない」
「俺の心臓が必要ない?」
「ああ。今まではある事情であんな姿をしていたがな、これが本来の俺の姿だ。この姿を取り戻せた今、お前の心臓は必要ない」
「ある事情?なんだよそれ?」
意味が分からない。あの猫の姿が仮の姿だと言うのか?じゃあ、猫又としての円の話はなんだったんだ?あれは全部俺を騙すための嘘だったのか?
「お前に話す必要はない。お前は……ここで死ぬんだからな」
「え?」
円が剣を振り上げる。まさか、それを自分に振り下ろすのか?
「嘘だよな、円?」
円が自分を殺すわけがない。何かの間違いだ。今までだってさんざん自分の命を狙うフリをしてたんだ。今回だってきっとそうだ。
「あ、わかった、いつもの冗談だろ?もう騙されないぞ?」
そうさ、きっと冗談に決まってるんだ。振り下ろすフリして、俺を驚かそうとしてるに違いない。
「せめてもの情けだ。苦しまぬよう一撃で殺してやる」
「もうわかったって。十分驚いたからさ」
だから、頼むからその刀を下ろしてくれよ!
「……さらばだ、刹那」
円の刃は無情に空を切った。