第百六十四話 罪と罰
「なんだって?」
刹那は己が耳を疑った。今、目の前の相手が信じられないことを口走らなかったか?
「だから、この男を殺せばいいんだよ。別にいいだろ?さっきまで君はそうしようとしてたじゃないか?」
陰軌が意地の悪い笑みを浮かべながら囁きかける。
確かに今の今まで自分は周りの人間を許すつもりはなかった。だが、実際に命を奪うとなると……。
「何を躊躇しているんだい?一思いにやってしまいなよ」
陽燈までもが刹那を急かす。
「なんでこんなことをさせるんだ?信者だろ?」
「そうだよ。だけど、僕の信者は陰軌の信者を殺してるんだ。償いをしなければ」
償い?そんな単純なことなのか?
「よ、陽燈様?」
指名された男が震えた声で陽燈を見上げる。その目には戸惑いと恐怖が入り混じった何とも言えない色が見える。
「そういうことだから、君は死ぬことになる。殉教できるんだ。本望だろ?」
陽燈は冷たくそう言い放った。とても簡潔に。まるで運がなかったとでも言うように。
「さぁ刹那、早くしなよ。別に僕らはいつまでも待つけど、彼の方は待たされると辛いと思うよ?」
「いや、俺は……」
「止めるのかい?それなら彼女は帰ってこないよ?」
地面に横たわる尊を見る。
あの子を救ってやりたい。刹那が切っ先を男に向けた。
「ヒッ」
男が小さく声を上げる。
尊が死んだのはこいつ等のせいだ。それなら何も問題はない。こいつ等のせいで彼女は死んだ。だから俺は――
「それでいい。さぁ一思いにやってしまいなよ」
刹那が紅煉を振り上げる。
だが――
「出来ない」
紅煉は炎を噴き出すことも無く、何かを切り裂くこともせず、そのまま静かに地面に頭を垂れた。
「なぜだい?彼らはあの子を殺めたんだ。彼らは罪を償うべきなんだよ?」
陽燈が問う。
「それとこれとは話が違う。違う形で償えばいい」
そうだ、やられたらやり返すではキリが無い。それこそ、自分と同じような思いをする人間を増やすだけ。
「人を一人殺しているんだよ?自業自得じゃないか。君は正義の鉄槌を下すんだよ」
陰軌が囁きかける。
「こんなものは正義でもなんでもない」
刹那は決して耳を貸さなかった。その姿に二人の神々は心底不思議そうな顔をする。
「分からない。分からないなぁ僕らには。まあ、君がやらないっていうなら自分たちでやるけどね」
「え?」
瞬きをするぐらいの時間だった。
男の頭上に黒い切れ目の様なものが現れ、それが見る見るうちに広がり、男はその中に呑みこまれてしまったのだ。彼の姿は瞬く間に消えてしまった。
しばしの沈黙。そして
「きゃぁぁぁ!」
群衆の中から上がった一つの悲鳴で人々は状況を理解し、次々に驚きの声を上げる。恐れおののき、混乱し、目の前の信じられない光景に目を閉じる。
「お前ら、何をしたんだッ?」
「見た通りだよ。彼には消えてもらった」
陰軌が悪びれる様子もなく答える。全く何も意に介していないかのように。
「あの人を殺したのか?」
「まあ、そうなるのかな?」
「お前ッ!」
「何を怒っているだい?さっきから言ってるけど、自業自得だろ。彼らは人を一人殺めてるんだ。自分たちの醜い争いの為にね。だったら償わなきゃ」
「だからって……」
「甘い、君は本当に甘い」
陽燈が鋭い視線を刹那に向ける。見た目に反したその冷酷な視線に刹那は思わずたじろいだ。
「先代なら躊躇なくあの男を殺してたよ。なのに君ときたら……」
「その先代なんて奴、俺は知らない!早くあの人を元に戻せ!」
「別にいいじゃないか。彼は幸せだったんだよ、自分の信じるものの為に死ねたんだから。なぁ、君たちもそう思うだろう?」
陽燈に視線を向けられても昼の民たちは頷くことはなかった。目の前で起きた現実が受け入れられないのだろう。
「これが君たちが望んだものだよ。君たちが信じてきたものだ!」
あたりを見回し、非難するように声を上げる陽燈の方を誰も見ようとしない。
「これで終わったね」
陰軌がパンパンと手を叩く。終わった?人が死んで終わり?違うだろ、こんなのは違う。
刹那の胸の内には何か得体のしれない怒りがあった。別に自分とは何ら関係のない人だった。それに、彼らは尊を殺めている。むしろそうあるべきだったのかもしれない。だが、納得できない。
「さて、用も済んだし。じゃあ刹那、君に新しい刀をあげるよ」
陽燈が上げた手を刹那は振り払った。
「待てよ。まだ終わってない」
刹那が紅煉を構える。その切っ先はもちろん陽燈達の方だ。
「何の真似だい?」
「あの人を元に戻せ。さもないと……」
刹那の目に迷いはない。ただまっすぐに目の前の神を見据えている。
「それは僕らに宣戦布告していると見ていいのかな?」
「そうなる」
辺りを剣呑な雰囲気が包み込む。その場にいた誰もが言葉を発さず、事の成り行きを固唾を呑んで見守っている。
「新しい刀はいらなのかな?」
「そんなものよりあの人を元に戻せ」
陽燈の言葉にも刹那は全く動じない。
「自分が誰か分からないままだよ。それでも良いのかい?」
「元に戻せ」
人々はそのやり取りを黙って見守った。
「そうか。わかった。それじゃあ……」
陰軌が手を振り上げた。
来るか――
「合格」
「は?」
予想外の言葉に刹那の気持ちが一瞬緩んだ。まさか、その隙を突いて攻めてくるつもりか?
「刹那、君は合格だ。新しい刀をあげるよ」
次の瞬間、刹那は光に包まれた。




