第百六十二話 地獄絵図
「尊ちゃん!」
刹那が尊の元へと駆け寄る。一目で重症と分かるほどの血を流し、彼女は目を閉じたまま動かなかった。
「尊ちゃん!」
必死に声をかけるが何の反応もない。心なしか体が徐々に冷たくなっている気がする。刹那の脳裏に最悪の事態がよぎった。
そして、追い打ちをかけるように刹那に絶望が降り注ぐ。
尊は息をしていなかった。
「尊……」
木槌を持った男が呆然と立ちすくんでいる。この男が殴ったのか?
「アンタがやったのか?」
刹那がその男を睨みつけと、男はその視線に怯えるように後ずさり、持っていた木槌を落とした。
「あああ、私は……私は、実の娘を……」
「娘……そうか、アンタがこの子の父親か」
自分の娘を家から放り出し、尊にあんな思いをさせていた張本人。
「もう一人、殴ったのはお前だな?」
尊の頭には左右に傷があった。そのどちらも形の違う傷で、同じ道具で殴られたとは考え難い。となれば、尊の父親と同じように、両目を見開き、血が垂れるスコップを持った目の前の昼の民の男を疑うのは当然だ。
「ま、まさか飛び出してくるとは思わなかったんだ!」
男は予想外の事態にうろたえている。自分が相手を殺してしまったかもしれないと考えているのだろう。
「お前たちはそれを黙って見てたのか?」
刹那が周りを見回せば、そこにいる誰もが彼の視線を避けるように目を逸らした。
「尊ちゃん」
昨日まで笑顔を浮かべていた顔にはひどい傷が出来ている。この子は、争いを止めるために飛び出したに違いない。誰よりも昼と夜の民の争いを止めさせたいと願っていたのだ。それが、こんな悲劇を生んでしまった。
「ア、アイツが悪いんだ!アイツがスコップを振り上げてくるから!」
「なんだと?元はと言えば、お前らが銅像を壊したのが原因だろうが!」
罵り合いながらお互いを指差す二人。それに感化されたのか、周りの人間たちも騒ぎ始める。
自分たちのせいで犠牲になった尊への謝罪ではなく、互いに罪の擦り付け合い。刹那の目に映ったのは、醜い人の姿だった。
「もういい、たくさんだ……」
尊は争いを止めたいと願っていた。だが実際はどうだ?こんな悲劇を前にしても彼らは争うことを止めようとしない。
彼女はこんな奴らの為に犠牲になったのか?こんな、愚かな奴らの為に。
引き抜いた神威が光り輝き、刀身が真紅に変質していく。
「燃えろ」
刹那の掛け声と共に、辺りが火に包まれる。紅煉から炎が噴出し、人々が持っている武器は次々に熱を帯び燃え始めた。
「う、うわぁぁッ?」
「な、なんだッ?」
目の前で起きている事象に混乱する人々。ただ一人、刹那だけは紅煉を固く握りしめ、怒りに燃える瞳で彼らを見据えていた。
「お前らみたいな人間に……生きている資格は無い!」
尊はこんなところで死ぬべき人間ではなかった。ましてや、こんな奴らの為に犠牲になるべき命ではなかった。
炎が次々に辺りを飲み込んでいく。
「ほ、炎を操ってる!災厄の子だ!」
その言葉に周りの人間たちが輪をかけて怯え始め悲鳴を上げる。
「助けてくれぇ!災厄の子に殺される!」
逃げ惑う人々、しかし、炎はそんな人々を決して逃がそうとはしない。行く手をさえぎるように炎が壁となって広がっていく。ある者は炎へと果敢に飛び込み、徒労に終わり体に着いた火を消すために転がりまわり、ある者は天に祈りをささげ始め、ある者は喚き散らしながら何か訳のわからないことを叫んでいる。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
「お前たち全員、死んでこの子に詫びろ」
誰一人として、ここから逃がしはしない――
刹那の怒りは炎となって憎むべき人間たちに襲い掛かる。
今、刹那を止めることが出来る者は誰もいない。
収まることなく吹き上がる炎。怯える人々の声。このままこの町が全て炎に包まれてしまうのではないか、人々がそう考え始めていたその時だった。
「さすがにそろそろ止めてもらえないかな?」
「そうそう。僕達の町が無くなっちゃうよ」
その声は周りからではない、はるか上空から聞こえてきた。そこにいる誰もがその声のする方を向き、そして、刹那以外の人々は呟いた。
「陽燈様」
「陰軌様」
その姿はまさにあの銅像そのままだった。美しい金髪に、白い布をまとった少年、もう一人は、艶のある黒髪に、黒い布をまとった少年。二人はゆっくりとその場に降り立った。