第百五十七話 良くない状況
あれは円だ。間違いない――
刹那は円と思しき黒猫を追いかけた。確証は無い。しかし確信はあった。旅路を共にした相棒を見間違うはずがない。
「円!」
刹那の呼び声を無視して円と思しき黒猫は人ごみの中へと消えてしまう。その姿を見失ってなるものかと、刹那もその後を追った。
「ッ!おい!」
「すいません!」
「ちょっと!」
「すいません、急いでるんです!」
人にぶつかることも顧みず、刹那は出来る限りの速度で黒猫の後を追った。しかし、体の小さい猫と、普通の人間ではこのような人ごみの中では移動速度に圧倒的に差が出る。それから数分もしないうちに刹那はその姿を見失ってしまった。
「くそッ!」
悔しさのあまり地面を蹴る。せっかく見つけたと思った円はどこかへ行ってしまった。
と、ここで刹那は尊を置いてきてしまったことに気付いた。この人ごみの中から探すのは苦労しそうだ。また怒られてしまうかもしれないな。
「さてと、尊ちゃんはどこかな?」
尊を置いてきたベンチの前まで戻ってきた刹那だったが、尊の姿はない。どこかへ移動したのだろうか。
「買うものはもう無いし、俺のこと探してるのか?」
辺りを見回してみるが、それらしき姿は見当たらない。やはり、自分を探しているのだろうか。となると、すれ違いになった可能性もある。コイツは厄介だ。
「あ~スッキリした」
尊を探す刹那の横を三人の少年たちが通り過ぎる。
「まったく、昼間に出てくるんじゃねぇよ」
「ホントだよな」
「でも、これで懲りただろうぜ、あの夜の女」
ん?今気になる言葉が聞こえてきた気がするが?
少年たちが歩いてきた方向、その先にあるのは狭い路地だ。
なにか、嫌な予感がする――
「あの路地の中だな」
刹那は急いでその路地へ向かった。少し暗くなっている道をまっすぐ進むと、行き止まり、そして、そこにいたのは……
「尊ちゃん!」
大慌てで刹那が地面にうずくまった尊に駆け寄った。彼女は体中に擦り傷や殴られた痕を作り、その所々からは血が滲み、とても痛々しい。服は破れ、汚れている。どう見てもただ事ではない。
「大丈夫ッ?」
「いいんです。何でもないですから」
「その傷で何でもないわけないだろ!何があったのッ?」
「……」
刹那が両肩を掴んで尋ねても尊は一言もしゃべらない。一体彼女に何が――ッ!
「さっきの奴ら?」
尊の体が一瞬ビクンッと揺れた。どうやら、間違いないようだ。
「さっき路地から出てきた奴らにやられたの?そうなの?」
尊は黙って頷く。見れば、体が小刻みに震えている。よほど怖い目に遭ったに違いない。
「なんでこんな酷いことを?」
「私が、夜の民だから。昼の民から見れば夜の民は同じ町に住んでいても敵みたいなものなんです。いつもは眼鏡でごまかせてるんですけど、今日はダメだったみたい。私、どこに行っても嫌われちゃうんですね」
尊が笑う。その声は震えていて、その眼からは涙が流れている。
「許さねぇ……」
「刹那さん?」
刹那は路地から表の通りに駆け出していた。おそらく先ほどの少年たちを追いかけるつもりに違いない。
「止めてください、刹那さん!」
表通りに飛び出す直前に尊が彼に追いついた。彼女は刹那の足にしがみつくと、そこから一歩も動かすまいと力の限り引っ張った。今の刹那は冷静な判断に欠ける。放っておけば何をするか分ったものではない。
「放してくれ尊ちゃん。あのガキども、絶対に許さねぇ!」
刹那の怒りは収まりそうにない。だが、もしここで彼らに報復すればそれこそ大変なことになる。
と、大きな声で騒いでいたせいか周りの注目を集めてしまった。道行く人々がこちらを見ている。いつもならちょっと注目を集めているだけに過ぎない、だが、今回は違った。
「おい、アイツ、陽燈様の像を壊した奴に似てないか?」
「ホントだ。ちょっと人呼んで来いよ」
まずいッ――
「尊ちゃん、帰ろう」
流石の刹那も状況が悪い方へ転がりつつあることを理解したのか、尊を連れてその場を後にした。人ごみにまぎれて帰ったが、何人かには見られている。これはあまり良くない状況だ。
* * *
人目を避けるように立ち去る刹那たちの姿を遠目から見ている二つの影があった。
「声をかけなくて良かったの?」
金髪の女が言う。
「ふん、何と声をかける?久しぶり、か?」
彼女の言葉に応えたのは一匹の黒猫だった。
「相変わらず素直じゃないのね。待ってあげればよかったのに。あんな期待を持たせるようなことをして」
「元々こちらには気付かせない予定だったんだ。それよりいつまで俺についてくるつもりだ?湖は良いのか?」
「私がいなくてもなんとでもなるわ。それに、私は見届けるつもりなの」
「勝手にしろ」
それだけ言い残し、黒猫は去って行った。その後を金髪の女がついていく。