第百四十一話 なぜだ?
「うぉ!」
間一髪だった。鼻先すれすれで炎が上がり、空気が少し熱い。円がいつもどのように炎を出しているのか知らなければ確実に顔に火がついていた。
「円!何すんだよッ?」
「……」
刹那のその問いに円は答えない。それどころか、瞳が再び真紅に染まり始めた。次が来るのかッ?
「円?」
「燃えろ」
「――ッ!」
後ろに跳ぶと自分が今までいた場所に火柱が上がる。なぜかは分からない。だが、円は……本気で自分を燃やすつもりだ。
「真貴耶、下がってろ」
「お兄ちゃん?」
真貴耶が不安そうな声を上げる。猫又とは言ってもまだ子供なのだ。目の前の空気から恐怖を感じ取っているに違いない。刹那の足元に寄り添うようにしている小さな体は小刻みに震えていた。
「大丈夫。アイツは俺の友達だから。今は機嫌が悪いんだよ。寝不足かな?大人しくさせるからさ?ちょっと下がってな」
努めて明るくふるまった刹那は真貴耶に笑顔を向けると円の方へと体を向けた。今の円の目、冗談でもなんでもない。本気だ。本気で自分を……。
「円、何があったんだよ?」
「何もない。ただ、本来の目的を果たそうとしているだけだ」
ここに来て初めて円が口を開いた。本来の目的?なんだったか?
「その顔は忘れているな?俺はお前の心臓を奪い取るために旅を共にしてきた。その目的を今、果たそうと思っている」
「そんな……なんで今更?」
確かに最初、円は自分の心臓を奪うためという理由で自分の旅に同行していた。だが、これまでの旅を通じて、いろいろな苦難を共に超えて、自分たちにはそれ以上の繋がりが出来たんじゃなかったのか?
「そう、今更だ。本来ならもっと早くケリをつけるべきだった」
円が目を閉じる。何か、心残りを振り切るように。そして再び見開かれた瞳は見事な紅に染まっている。
「円!止めてくれ!」
刹那の懇願も円には届かない。再び刹那の目の前で炎が上がる。刹那が飛び退く。思い通りにいかないことに腹立たしさを覚えているのか、円が舌打ちする。
「なぜ紅煉を使わんッ?」
「俺はお前と戦いたくない。こんなこと止めてくれ!」
「お前は――くッ」
円の瞳が一瞬だけ黒味を取り戻した気がした。もしかすると、円も悩んでいるのではないか?まだ、アイツを説得することが出来るんじゃないか?
「そうか。ならお前は戦わなくて良い。俺が一方的にお前の心臓を抉るだけだ!」
その声と共に円の倍はありそうな火球が円の目の前に現れた。この狭い洞窟で、これは……避けられない!
「これなら避けようがあるまい。心臓ぐらいは焼け残るようにしてやる」
火球が刹那に迫る。燃え盛る音を立てながら迫るその巨大な火球に対してどうすれば良いのか、目の前に次々に襲い掛かる事態に、刹那は思考が追い付かない。そして、それは彼の動きを止めてしまう。
火球が刹那の目の前まで迫った。刹那の体が火球に吸い込まれるようにして炎に包まれる。
「さらばだ刹那――何ッ?」
刹那は死んだ。あの炎で生きているはずがない。刹那自身そう思ったに違いない。だが彼は生きていた。炎が、彼を避けるようにして裂け、そして空中で消えていった。刹那の後ろで毛を逆立てる真貴耶の姿があった。彼が、円の炎を操ったのだ。
「お兄ちゃんをいじめるな!」
円の近くで炎が上がる。おそらく真貴耶の炎だ。円に襲い掛かるように伸びた炎はしかし円を避け、地面にぶつかると、そのまま見る見るうちに小さくなって消えてしまった。
次は円の番だった。真貴耶の目の前で二つの炎が上がり、それらが左右から真貴耶を包み込まんと盛り上がった。しかし、真貴耶はそれを避けることをせず、自分の足元から炎を出すと、円の炎を包み込んでしまった。
猫又同士の戦い。その炎の攻防に、刹那は一歩も動くことが出来ず、ただ黙って見ていることしかできなかった。と、円の瞳が紅から黒へと変わっていく。なんだ?何があった?
「若いとは言っても猫又か。このままでは埒が明かんな」
「円?」
「刹那、今日はこれで退く。だが、覚えていろ。また来るぞ」
それだけ言うと円は洞窟の奥へと消えてしまった。すぐに後を追った刹那だが、円の黒い体は洞窟の闇と同化し、彼の姿を追うことを拒絶した。
「円……」
円は行ってしまった。自分を残して。どうして?
その事実を受け入れた時、体が震えた。その震えを止めようと両手を痛いくらいに握りしめる。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
真貴耶が刹那の顔を覗き込む。
「だ、大丈夫だよ。それより、真貴耶の方こそ大丈夫?俺を庇って戦ってくれたけど、怪我とかしてない?」
「うん。僕は大丈夫。でも……」
「でも?」
「お兄ちゃんの方が辛そう」
「――ッ!」
参ったな。こんな小さな子にまで見透かされちまうとは。
「そんなことないよ!元気だよ!ほらっ!」
刹那が真貴耶を安心させようとその場で飛び跳ねる。だが、その姿はどう見ても空元気で見ている方が辛くなってしまいそうだ。
* * *
それから刹那は真貴耶の家があるという猫又の村まで彼を送って行った。猫又の村はこの山の中腹にあり、道からそれた所であるため人間にも見つかりにくいようだった。村の近くまで来たところで、刹那は真貴耶と別れを告げることにした。真貴耶はともかく、村の猫又たちは人間である刹那を歓迎はしてくれないだろう。
「ここまでくれば大丈夫だろ」
「うん。ありがとうお兄ちゃん。あの……」
「ん?どうした?」
真貴耶が何か言い辛そうに言い淀んだ。刹那は急かすことをせず続きを待つ。
「あの黒猫のお兄ちゃんはなんなの?」
なんだそんなことか。
「真貴耶と同じ猫又さ」
「うそだよ。お兄ちゃんが猫又なはずない」
真貴耶が瞬時に否定する。
猫又ではない?
「真貴耶、どういうことだ?」
「だって、あのお兄ちゃん、しっぽが一本しかなかったもん。お父さんとお母さんが言ってたよ、猫又はしっぽがいっぱいあって、それが「ホコリ」なんだって」
たどたどしい言い方だったが、たぶん誇りのことだろう。確かに、円の尻尾は一本しかない。刹那もそれは不思議に思っていた。猫又と呼ぶにはあまりに重要な特徴が欠けている。
「それに、お兄ちゃんが火を出した時、目がまっ赤になってたけど、僕たちは火を出す時にあんな風にはならないよ」
確かにそうだった。真貴耶が炎を操る時、彼の目は本来の色のままだった。ではなぜ円はあんな風に瞳が紅く染まる?
「あのお兄ちゃんは猫又じゃないけど炎が出せるの?そういう猫なのかな?」
「う~ん、ちょっと俺にも分からないな。今後会った時に聞いてみるよ」
「……また会うの?」
「あぁ。きっとまた会うよ」
円はまた来ると言っていた。きっと自分の心臓を諦めていないのだ。それならそれで構わない。その時はアイツの真意を確かめる。
それに、円はまだ自分のことを気にかけてくれているはずなのだ。でなければ、あんな風に自分の目の前で炎を出すようなことはせず、直接燃やそうとするはずだ。
だが、もし向こうから来ないならばこちらから行ってやる。だって、アイツは俺の――
「アイツは俺の相棒だからな」
その笑顔の答えに真貴耶も満足したようだ。同じ笑顔を返すと、踵を返して村の方へと走って行った。
「お兄ちゃん、ばいば~い」
「おう、もう変なのに捕まるなよ~」
「うん!ありがとね!」
真貴耶は元気に返事をするとそのまま振り返らずに村へと走って行った。その後ろ姿を見送りながら、刹那は円のことを考えた。
同じ時を過ごしてきたが未だに自分は円について知らないことが多い。今度会った時は、締め上げてでもアイツのことを聞き出してやろう。
そんな決意を固めながら、刹那は一人、黄夜へと歩を進めた。