第百三十四話 遅れてきた男
「遅くなっちまったな。円に貸したもん取りに行ってたからよ」
傾いた帽子を直しながら呟くその男は、右目だけで刹那たちを見下ろしニッと笑った。そう、この男こそ、この船の船長――
「ゲロ船長!」
「そう、ゲロせん――ッおい!違うだろ!」
「何が違うのだゲロ船長?」
「ゲロ船長じゃねぇよ!ちゃんとした名前があるだろ!」
「別にどっちでも良いじゃないかゲロ船長」
「律夏、お前まで……」
ゲロ――雷は最後の頼みの綱の律夏にまで見放され、いよいよ顔に余裕がなくなってきていた。
「まあ冗談はさておいて。来るのが遅いよ雷」
「……」
雷の返事がない。
「ちょっと雷?」
「どうせ俺なんて……船長のくせに船酔いになるし……」
見れば、雷はその場にしゃがみこみ、ブツブツと一人で何やら呟いている。どうやらいじけてしまったらしい。
「ちょっと雷!いじけてる場合じゃないだろ!」
そう、敵は目の前まで迫っている。今は少しでも戦力が欲しい所なのだ。
「いいんだ別に。俺は大事な時にゲロ吐いてるようなダメ船長だから」
ますます意固地になる雷。こいつはめんどくさい。
「何言ってんのさ雷!アタシもみんなもアンタが来るの待ってたんだよ?」
「へっ、いいよ別に気を遣ってくれなくても」
律夏の持ち上げにも雷が応じる様子はない。
「そんなんじゃないって、ね、刹那?」
律夏が肘で刹那を突く。
「へ?あっそうそう、やっぱり海の上で頼りになるのは船長だよ!」
刹那が慌てて会話を合わせる。その甲斐あってか、雷が少しだけ顔を上げた。もう一息だ。
「まあ、実際頼りになったのは副長の方だったがな」
「――ッ!」
円の一言が相当効いたのだろう。雷はまた蹲ってしまった。
「俺、いらない子なんだ……」
再び深みに嵌る(はまる)雷。これはちょっとやそっとでは立ち直りそうにない。
「円、いらんこと言うなよ!」
刹那が空気の読めない相棒を小声で窘める。しかし、そんなものはどこ吹く風、円は涼しい顔をしてこう言い放った。
「事実だから仕方ないだろうが」
「真実とは時に人を傷つけるものなんだよ」
その言葉に円がハッとする。よかった、分かってくれたか。
「お前に言われるとは、俺も焼きが回ったか」
引っ叩いてやろうかこのバカ猫!
「あれだよ、真打ちは遅れてやってくるってやつだよ!」
「そ、そうそう!後から来て美味しいとこ持ってっちゃうってやつ!」
「そうかな?」
お、食いついた。
「来るのが遅すぎて終わってる可能性もあるがな」
「「ちょっとお前黙ってろよ!」」
刹那一人ならいつも通り受け流せただろうが、律夏が加わったとあっては流石の円も黙るしかなかった。
「雷のかっこ良い所見たいなぁ、アタシ」
「あ、俺も俺も!」
「そう?ホントに?そっかぁ、そこまで言われたらやるしかないか!」
ついに雷が完全に立ち直った。長かった、ここまで本当に長かった。
「刹那、お前はここで見てろ。雷海の海賊団船長の実力、見せてやるぜぇ!」
威勢よく飛び出した雷の元へ巨大イカの足が迫る。だが、彼は怯むことなくそれを槍で薙ぎ払う。流れるような槍捌きはまるで踊っているかのようだ。
「おぉ!」
「ほう」
「久しぶりに見たね、雷の槍捌き」
船長の面目躍如と言ったところだろうか。巨大イカも思わぬ強敵の出現に攻撃をしあぐねいている。
「どうだ俺の槍捌きは?見直しただろうッ?」
雷がこちらに向かって手を振っている。おいおい、いくら相手が攻撃の手を休めたからってそんなことしてると……
「雷!後ろ!」
「へ?」
「――ッ!」
雷めがけて巨大イカの足が伸びる――だが
「律夏!」
なんと巨大イカの足が絡め取ったのは雷ではなく、律夏だった。いや、本来なら雷が絡め取られているはずだったのだ。彼女が雷を突き飛ばしさえしなければ。
「ああああああ!」
律夏の苦しそうな声が響く。あれだけ太い足に絞められているのだ、もし放っておけば、体中の骨が砕けてしまう!
「律夏さん!」
彼女の元へと駆け寄ろうとする刹那の足を円が引っ張った。
「何すんだ円!」
「必要ない」
その円の言葉を刹那はすぐに理解することになる。雷が槍を構え、それを律夏を掴んだ足めがけて放った。その衝撃や凄まじく、巨大イカの足が跡形もなく吹き飛んだ。
「うそッ?」
紅煉で刀身を燃やしてやっと切り裂けた足が一撃で吹き飛んでしまった。いったい雷は何をしたんだ?
「悪い、コイツ頼むわ」
律夏を抱きかかえてきた雷が刹那たちの前で彼女を下す。目を閉じて動かないが……よかった、気絶しているだけだ。足が絡みついていた箇所の服が破れ、傷から血が出てはいるが、見た目ほど大きな怪我ではない。おそらく、雷による迅速な救出が功を奏したのだろう。
雷の方でもそれを確認したのか、振り返ると再び槍を構えた。
「ラ――ッ!」
一言呼び止めようとした刹那は踏みとどまった。いや、踏みとどまらずを得なかった。今までの雷からは想像もできないような殺気に気圧されてしまったのだ。
「うちの船員に手ぇ出しやがって……許さねぇ」