第百三十話 幽霊の足音
振り向くな俺。振り向くな。
目をしっかりとつむり何も見ないようにする。しかし、背後に感じる気配は全く消える様子はない。
頼む、どこかに行ってくれ。
「か……」
か?
「皮をよこせぇぇぇ」
「ぎゃぁぁぁ!」
その声で飛び上がった刹那の目に映ったのは黒い物体。すぐにそれが雷が被っていたのと同じ形の帽子だと理解する。あれは確か海の男の証とか。ということは……。
「皮ァァァ!」
「■○△∻≜⊗♨☯!!!」
刹那は声にならない叫び声を発しながら一心不乱に部屋の外へ飛び出した。部屋を出た先の壁に顔をぶつけるがそんなことに構っている暇はない。
早く、早く逃げなきゃ――
すっ転びそうになりながら暗い中を駆け抜け、階段を駆け上がる。目の前が少し明るくなっていく、もう少し、もう少しだ。
やっとの思いで広い空間へと出る。やっと外へと出れたのだ。
「はぁはぁはぁ」
後ろを振り返るが追ってくる気配はない。よかった、なんとか撒けたようだ。
「はぁ~」
甲板の端に手をかけて呼吸を整える。ほんの数秒の出来事だったはずなのに、息は絶え絶え、まるで一時間ほど全力疾走した後のようだ。
本当に死ぬかと思った。何とか逃げ切ることが出来たが、もし捕まっていたらと思うと……。
「やめやめ、考えるのはよそう」
今は無事に逃げ延びることが出来たことを喜ぶとしよう。
刹那は呼吸を整え、周りを見回した。夜間の監視当番なのだろう、船員が一人甲板に立っていたが、やることも無いのか欠伸をしている。確かに海は静かで、船体に打ち付けられる潮の音だけがその場に響いていた。
「綺麗だな」
見上げれば満天の星空。どこを見ても星しか見えず、明かりの少ない船上のためかまるで自分が星空の一部になってしまったかのように感じる。命からがら逃げ延びたということもあってか、ただでさえ美しい星空がもっと輝いて見える。
「ふぅ……」
これからどうしたものか。戻るにしてもまだアイツがいるかもしれない。
と、刹那の耳に絶望的な音が届く。
それは、床板と何か固いものがぶつかり合う様な音。段々と音が大きくなっていき、それの接近を感じさせる。
間違いない、足音だ。
「く、くそっ」
あまりの恐怖に腰が抜けてしまう。
逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ――
だが足が動かない。立ち上がることが出来ない。その間も音はドンドン迫ってくる。
こんなことなら神威を持ってくれば良かった。幽霊相手に刀が効くかどうかは分からないが、無いよりマシだ。なにか、なにか武器になるものは?
刹那がそうやっている間にも足音は近づいてくる。
くそっ、何か、何か――
「こ、これでッ!」
手に握ったのはモップ。きっと掃除用の物だろう。かなり心細いが、今はコイツに賭けるしかない。
足音が目の前まで迫った。黒い人影が見える。躊躇している暇はない。
「うりゃぁぁぁ!」
満身の力を込めてモップを振り下ろす。
「ぐげっ」
当たったッ?
腕に広がる確かな感触。そして、相手のものと思わしき声。間違いない、相手に当たっている。そして、確実に相手に効果がある。そうと分かればこっちのものだ。
「オラオラオラオラッ」
何度も何度もモップを振り下ろす。その度に聞こえる相手の声と腕に広がる感触。それが刹那を鼓舞しモップを握る手に力を込めさせる。
「ちょ、やめ!」
相手も相当参っているらしい。だが、止めてなるものか。
「うぉぉぉ!」
たとえ腕がちぎれようとも振り下ろすのを止めるわけにはいかない。自分の命が掛かっているのだ。まだ生皮なんて剥がれたくない!
「刹那、ちょっと、痛い!」
突然名を呼ばれ、普段の刹那なら動きが鈍っただろう。だが今の彼にそれはない。刹那は今、モップを振るう修羅になっているのだ。
「くらえぇぇ!」
「痛いって言ってんだろうが!刹那!」
モップを掴まれてしまったッ!
こ、殺されるッ――
自分の死を覚悟した刹那だったが、いつまでもその瞬間は訪れなかった。
恐る恐る目を開ければ、そこにいたのはよく見知った顔の男だった。
「雷?」
「そうだよ。俺だよ。ったく、何だっていうんだ、一体?」
刹那の目の前には左手でモップを掴み、右手で頭をさする雷の姿があった。目の前にいるのが雷ということは、幽霊は?
「雷、幽霊は?」
「はぁ?幽霊?んなもんどこにもいねぇよ」
いない?そんな馬鹿な、だってさっき自分の部屋に幽霊が……。
ん?よく見れば、今の雷には何かが足りないような?
「あれ?雷、帽子は?」
「今度は帽子か?あれは円が貸してくれって言うから靴と一緒に貸してやったよ」
「貸したって……あっ」
刹那の部屋に現れた幽霊はそう言えば帽子の下は黒かったような。ということは、もしかしなくてもあれは……。
「円ァァァッ!」
間違いない。あれは円だ。帽子で顔を隠すだけじゃなく、わざわざ足音を演出するために雷に靴まで借りるとは、本当に下らないことをしてくれる。
「ど、どうした刹那?」
そう尋ねる雷の顔は刹那のすさまじい剣幕に驚きを隠せないでいる。
「あの駄猫、やって良いことと悪いことがある!猫又らしく尻尾を三本くらいに裂いてやる!」
物騒なことを口にする刹那だが、その手に握られたモップがその剣呑な雰囲気をぶち壊していることは気付いていない。
「待てよ刹那、少し落ちつ――ッ」
刹那を止めようとした雷の体が傾く。いや、船全体が傾いた。その事態に怒り心頭の刹那も落ち着きを取り戻す。
「な、なんだ?」
船が激しく左右に揺れている。一体何があった?
「どうした?変な海流に乗っちまったかッ?」
雷が見張りの船員に状況説明を求める。
「い、いや、海は穏やかなままです。何がなんやら」
船員も訳が分からないといった様子だ。
この揺れ方は尋常ではない。自分だけではなく、雷ですらまっすぐに立っていられないほどなのだ。船のあちこちがギシギシと音を立てる。素人の刹那にも分かる。このままじゃヤバい。
「雷、どうするんだよッ?」
刹那が現状最も頼りになるであろう男に声をかける。船長である彼なら何か対策を考えているはずだ。だが……
「ううう、うぇぇぇ」
最も頼りになるはずの男は甲板の端で嘔吐していた。