第百二十八話 それぞれの関係
轟海丸が出航してから早二時間。海はまだ穏やかなままで、特に変わった様子は見られない。雷と刹那の二人を除いては。
「うううぉぉぉぇぇぇぇ」
「うげぇぇぇぇ」
甲板から滝のように流れる二筋の吐しゃ物。照りつける太陽が反射して、キラキラと輝く様は美しさすら感じさせる……わけがない。
「うう、おい、刹那、大丈夫か?」
「な、なんとか……おうぅぅぇぇぇ」
船が初体験の刹那は見事に船酔いし、胃の中の物を全て吐き出さんばかりの勢いだった。
「人の心配してる暇があったら自分の方を何とかしろっての。ほんとに、うちの船長は……」
律夏が雷の背中をさすりながらぼやく。刹那も先ほど聞いたのだが、どうやら雷は乗り物酔いが激しいらしく、出航するたびにこうなのだという。なぜそれで船長やってるんだろうか。
「言うな律夏。俺だって出来れば……うえぇぇぇ」
「あ~、もう、分かったから喋るなよ。刹那の方は……猫ちゃんが見てくれてるのか」
律夏と同じように、刹那の背中は円がさすっている。といっても、律夏から見ればただ猫が戯れてるだけにしか見えないだろう。
「お互い苦労するね、猫ちゃん」
「あぁ、全くだ」
円が相槌を打ったその瞬間、彼らの時間が止まる。律夏と雷の目が見開かれ、刹那は「あぁ、そういやまだ説明してなかった」と吐き気を我慢しながら考えていた。
「ん?どうした?」
「猫が喋った!」
毎度おなじみの光景である。本来ならここで刹那が説明するのだが、今の彼はとてもそんな状態ではない。
「ちょ、ちょっと雷、猫が!猫が喋ってるよ!」
「わ、分かったから揺らすな、うぅぅぅぅ」
混乱する律夏と混乱しながらも吐き続ける雷。すさまじい光景だ。そのあまりの騒がしさに他の船員たちも続々と集まってくる。
それから円が彼らに事情を説明するまでの間、辺りに響いたのは驚きの声と胃の中の物を逆流させる二人の嘔吐の音だった。
「それにしても、猫又ねぇ、ホントにいるんだね」
円の説明を聞き終え、いくらか落ち着いた律夏が納得したように頷く。左手は、未だに雷の背中をさすったままだ。
「猫又がいるんだ、うぷっ、人魚だって……うぇぇ」
「いいから、アンタはさっさと全部出しちゃいなっての。刹那の方はもう大丈夫かい?」
「おかげ様でなんとか……」
そう言いながらも刹那の顔色は芳しくない。無理は禁物、と言ったところだろう。
「まったく、世話の焼けるやつだ」
あきれ返った様子の円は優雅に寝転がっている。その光景に刹那は思わず尻尾を踏んづけてやりたくなった。
「ははは、円はまるでお母さんみたいだね」
「勘弁してくれ。こんな奴の親になったら苦労が絶えん」
刹那が動けないのを良いことに、円は好き放題言っている。
「そちらの方もずいぶん面倒を見慣れているようだが?」
「あぁ、雷とアタシは幼馴染だからね。昔っからの付き合いで慣れちゃってるんだよ」
「へぇ~」
言われてみれば、どことなくツーカーで通じ合っている所があった。
「あ、律夏もうちょっと右」
「はいはい。ったく、いつまで経っても慣れないんだから」
そう言いながらもちゃんと右側をさすってあげているあたり、この人たちなりの信頼関係が築かれているのだろう。
その光景をほほえましいと思いながら見ていた刹那の視界の端に何か気になるものが映った。
「ん?」
なんだ?今、海面に大きな影が見えたような?
「どうした刹那?」
「あ、いや、なんかデカい影が見えたから」
「デカい影?」
「コイツのゲロで魚が集まったんじゃないの?」
「うっ、おい、押すな律夏」
「ま、そんなに気にすることじゃないよ。こんなに海も穏やかだしさ」
「そうか、そうだよね」
自分よりも海に詳しい律夏がそう言っているのだ。おそらく問題ないのだろう。
「そうだ。それに、お前はもっと先に気にするべきことがあるぞ」
「あ?なんだよ円?」
「それはな、これだ」
その言葉の後、円は執拗に刹那の体を揺らした。その揺れは船の揺れと相まって、再び刹那にあの悪夢を思い出させる。
「うっ、おい円、止めろよ」
「刹那、龍降湖でのことを覚えているか?」
「あ?」
「二日酔いに苦しむ俺に、お前が何をしたか、忘れたとは言わせんぞ?」
「あ……」
記憶をたどる刹那の頭にあの時の光景が浮かび上がる。その瞬間、体中から嫌な汗が吹き出した。
「ま、待て円、話せばわかる。な?話し合おうぜ?復讐は虚しいだけだってのも、あそこで学んだだろ?」
「確かにな。だが、俺はそこまで達観できるほどまだ人間が出来ていないのだ」
「猫だろうが」
「御託は良い!覚悟しろ刹那!」
その後、左右に揺られ、腹に何度も体当たりを受けた刹那はその腹の中身をすべて出し切るまで甲板にもたれ掛ることとなった。