第百二十四話 どうしたものか?
海、そこは広大で、何人も拒むことのない母のような優しさを秘めている。刹那は今、その雄大な姿を目の前にして思わず叫びたい衝動に駆られていた。
「ヤッホ――あだッ!」
「止めんか馬鹿者!」
円に足を噛まれ、刹那のもくろみは阻止されてしまった。まったく、人が気持ちよく叫ぼうとしている時に無粋な猫だ。
「邪魔すんなよ円!」
「やかましい。人の目があるところでアホなことをするんじゃない」
円の小声に辺りを見回してみれば、確かに何人かの目がこちらに向いていた。刹那がそちらに向くと、皆、軽くそっぽを向いてしまう。ふむ、ちょっと恥ずかしいかもな。
「まったく、バカやってないで早く目的の物を探すぞ」
「へいへい」
刹那たちが今いる場所は、海に面した港町。漁師によって水揚げされた魚がせわしなく運ばれ、その活気に中てられたか刹那は先ほどから落ち着きが無い。
その港町がある場所の地形は陸地が海に向けて飛び出した形になっており、地図で見ればちょうど「凹」の飛び出した先の部分になる。なぜこんな場所にいるかと言えば、刹那たちが目指す黄夜は反対側の飛び出した方にあるためだ。
黄夜に向かうには二つの行き方がある。一つは「凹」のくぼみの部分――つまり海――を船で渡ってしまう方法。もう一つは、海沿いを進んで陸路を行く方法。ではなぜ刹那たちが海路を選んだかと言えば、陸路を選んだ場合に避けて通ることが出来ない山があり、その山の山道が現在土砂崩れで使えなくなっているという情報を得たからだ。
幸い、頼めばこちらの港町から黄夜側の陸地の港町まで往復する船があるということで、刹那たちはその船を探して港町をうろついている。
「申し訳ありませんが、本日の船便は欠航となっております」
刹那たちが船便を取ろうと発着場の受付に出向くと、そこではこのように返されてしまった。
「じゃあ、明日とかは?」
「申し訳ありません。欠航です」
「明後日は?」
「欠航です」
「あの、いつならやってるんですか?」
刹那が尋ねると、受付担当の男は申し訳なさそうに目を伏せてこう答えた。
「申し訳ありませんが、当面出航の予定はありません」
「そんな~」
理由を聞いてみれば、最近、出航した船便がそのまま行方不明になってしまうという事象が立て続けに起きているという。黄夜側の発着場にも問い合わせてみたが出航した船便は到着しておらず、どうやら向かう途中で何かがあったらしいということしか分からないという。そのため、原因が特定できるまでは船便の運航は中止されているらしい。
「どうするよ円?」
「ふむ、これは想定外だな。どうしたものか?」
このような場合、いつも行動の指針になるのは決まってある出来事である。そして、その出来事はいつも刹那の腹から生まれてくる。
「あ……」
刹那の腹が盛大に自己主張をはじめ、刹那の鼻がそれを鎮めるための場所を探す。
「円、行くぞ!」
「どこに?と聞くまでもないか……」
刹那は初めて訪れたにもかかわらず、全く迷うそぶりも見せずに飯屋へと繰り出したのだった。
「おい、サザエの壺焼きはまだかぁ?」
「おねぇちゃん、酒追加ね!」
その飯屋は人であふれかえり、活気に充ち溢れていた。漁師は朝早く漁に出て、昼前には港に戻ってくる。取った魚は市場へ持って行き、それでその日の仕事は終了。あとは皆自由に過ごす。昼間から酒を飲む者、家族と過ごす者など様々だが、この食堂には前者の様な者たちが溢れかえっていた。
「さて、飯だ飯」
「まったく、呆れてものも言えんとはこのことだな」
席に着いた刹那が壁に掛けられたメニューを端から眺めていく様を、円は呆れかえりながら見つめていた。
「そう言うなって、海が目の前にあるってことは、きっとうまい魚が食えるぞ?」
「……まあ目的の船便がやっていないわけだしな。慌てても仕方あるまい」
円のお許しも出たため、刹那が早速海の幸を堪能しようとしたその時――
「そこだァ!」
「やっちまえ!」
怒号にも似た叫び声が店内に響き渡った。何事かとそちらに視線を向けてみれば、そこでは男二人が手を組んで腕相撲をしている。一人は角刈りの強面の男。相手は同じく強面の坊主頭の男だ。二人ともよく日焼けした肌に筋骨隆々と、いかにも海の男と言った風体だ。
「力比べか、よくもまあ、わざわざ疲れることをするものだな」
「良いんじゃねぇか?盛り上がってるみたいだし」
「お前は行かないのか?こういったお祭り騒ぎは大好物だろうが?」
「嫌いじゃないけどな。まずは飯だ!」
最優先事項は食欲。本当に分かりやすい男である。
「うぉぉぉ」
坊主頭の男が大声と共に一気に勝負に出た。角刈りの男も頑張ってはいるが、じりじりと腕がテーブルに近づいて行き、ついに
「勝負あり!」
坊主頭の男の勝利で勝負は決着した。
「やったぜ!」
「ちくしょう!」
当の本人たちよりも周りの人々の方が興奮している。「約束通り奢ってもらうぞ」という声が聞こえてくるあたり、どうやら、彼らの勝敗で賭けをしていたようだ。
「なんだとてめぇッ?」
「あぁ?やるってのかオイ?」
と、興奮しすぎたのか、彼らの中に先ほどとは違う本物の怒声が混じり始めた。もともと血の気の多い部類の人間だ、沸点はあまり高くない。そして、そんな人間ばかりのせいで喧嘩は珍しくないのか、周りからははやし立てる声が聞こえてきた。
「ありゃりゃ、喧嘩かよ」
「まったく、本当に疲れるのが好きな奴らだな」
こんな状態になっても刹那の関心ごとは己の空腹を満たしてくれる料理だけだ。早く来ないだろうか。
「おいおい、せっかく美味い飯を食おうと思って来てみれば、こりゃなんの騒ぎだ?」
店の入り口から響いてきたその声で、あれほど騒がしかった店内がシンと静まり返った。
皆の視線の集まる先、そこにいたのは一人の男だった。