第百二十三話 本当の願い
「刹那くん?」
そこでは久遠の隣に寄り添うようにして座り、彼の亡骸を見下ろしている雪の姿があった。
よかった。雪はまだ生きている。
「よかった。もしかしたらダメかと……」
「来ないで!」
雪の方へと歩こうとした刹那を彼女の声が制止する。先ほどの久遠を止めた時と同じ、はっきりとした意志がこもった声だ。
「こっちに来ないで」
「雪さん、まさか、死のうなんて思ってるわけじゃないですよね?」
否定してくれ。お願いだから――
だが雪は何も答えない。見たところ先ほどのメスは持っていないが、ここにはいろいろなものがある。何が凶器になるかわかったものじゃない。
「私たちは罪を重ねすぎたの。それは償わなければいけない」
「死ぬことはないでしょ!」
「人を殺めておいて、自分だけが生き残ろうなんて虫が良すぎる!」
「だが、死んでも何の解決にもならんと思うがな」
いつの間にか追いついた円は刹那の足下にいた。
「刹那くん、アナタのおかげで私は決心がついた。本当にありがとう」
「俺は自殺をさせるために勇気付けたわけじゃない!」
そうだ、こんなことをさせるために俺はアナタを――
「もういいの。あの人を止めることが出来た。それだけで私は満足……」
雪はそう言うと、服のポケットから何か小さな箱のようなものを取り出した。あれは……マッチだ!
「止めろ!早まるな!」
「あの人、見かけによらずさびしがり屋さんなの。私がそばに居てあげなきゃ……」
雪がマッチをこする。シュボッという音と共にマッチの先に火がともる。ゆらゆら揺れるそれを見つめながら雪はその先を自分の喉に向けた。
「ダメだ!雪さん!」
「さようなら」
それだけ言い残し、雪は自分の体に火を付けた。喉から胸へ、胸から腰へ、あっという間に火が彼女の体を包んでいく。彼女は一瞬にして燃え盛る松明の様になってしまった。
だが、それだけでは収まらない。雪の体から床へとこぼれた火は、すぐに彼女を中心にして燃え広がっていく。どうやら、何かの薬品を撒いたようだ。瞬く間に地下室は炎に包まれていく。
「雪さん!」
「ダメだ刹那!もう助からん!」
雪の方へ駆け寄ろうとする刹那の足の裾を円が咥えて制止する。炎の向こうの彼女の体はすでに溶けはじめ、首から下はもうほとんど原型を留めていない。
「放せ!放せよ円!」
「馬鹿を言うな!お前まで一緒に死ぬ気か!」
雪さんが!こんな、こんなことって――
「雪さ――ッ!」
「いかん!」
耳をつんざくような爆音。
どうやら、何かの薬品に火が引火したようだ。刹那はそれをいち早く察知した円によって、後ろに引っ張られたおかげで怪我はない。だが、さらに火の手は強まりついに雪の姿も見えなくなってしまった。
その時、刹那の耳にある音が聞こえてきた。
「この歌、あの時の?」
炎がもうもうと上がる中、あの優しい声が響く。恋人の為に何もしてやれなかった吟遊詩人の歌。
雪が歌っているのだろうか?
「雪さん……」
「ここに居ては危ない!逃げるぞ刹那!」
「――ッ!くそっ!」
刹那たちは踵を返して燃え盛る地下室から飛び出した。そして、そのままの足で二階の自分たちの部屋へと向かう。神威と荷物を回収しなければならないのだ。
「全部持ったか?よし、逃げるぞ。あの火の勢いだ。すぐに一階まで火の手が上がってしまう」
慌てて階段を駆け降りると、すでに書斎から煙が上がっている。もうあまり猶予はない。刹那たちは真っ直ぐに外へと向かった。
屋敷は刹那達が外に出てから数分で炎に包まれた。火事に気付いた村の住人が走って来て刹那に事情を聴いたが、刹那は正直に答えることはせず、「寝ていたら火の手が上がったので慌てて荷物を持って飛び出した」とだけ答えた。
この屋敷であったことは、絶対に言うわけにはいかない。雪の名誉のためにも。
それからしばらくして、騒ぎを聞きつけた村の自警団の人間達がやって来て屋敷の炎を鎮火したが、屋敷はいくつかの柱を残してほとんど全焼してしまい、久遠と雪の遺体も見つからず、その状況から二人の生存は絶望的だろうという判断が下された。
「これで良かったのかな」
燃え残った柱を見つめながら刹那がつぶやく。柱はまだ熱を持っているようで、所々から煙を吐いている。
「良かったかは分からんが、これが彼女の望みだったのだろう」
「望みか……」
久遠は雪の望みを叶える為に殺人まで犯していた。しかし、結果的にそれは雪の望みでは無く、彼自身の望みへと変わって行ってしまった。雪の本当の望みは外の世界を見ることではなく、ずっと彼の傍にいることだったのだろう。命を絶った今、彼女は久遠の傍へ行くことは出来たのだろうか。
「ん?あれは……」
刹那は燃えカスの中に何かを見つけ、近づいて行った。
そこにあったのは、小さな紙切れ。寄り添うようにして枝に留まる二匹の小鳥、雪が描いた絵だった。
拾い上げると、ほとんどが燃えてしまっていたために、端からボロボロと崩れさり、胸から上の部分しか残らなくなってしまった。
「あっ……」
その絵を掌に乗せ、しばらく眺めていた刹那だったが、突然の突風がその絵をさらってしまった。
絵はまるで本物の鳥のように宙を舞い、そのまま夜の空へと消えて行った。