第百二十二話 男の妄執
「先ほどはよくも不意打ちをしてくれたな」
火を消そうと慌てふためている久遠を横目に見ながら円がつぶやいた。その瞳はまだ真紅のままで、いつでも再点火が出来ることを表している。
「貴様、いったい何をした?」
「ふん、軽く火をつけてやっただけだ。ガタガタ騒ぐな」
久遠の近くには雪がいる。それを考慮して円も火の威力を弱めたのだろうが、それでも久遠の服が丸焦げになっている所を見ると、それなりの火力があるに違いない。
「この――」
円にぶつけようとテーブルの上のビーカーなどに手を伸ばす久遠だったが、もともと身軽な円にそんなものが当たるはずがない。
円は隙をついては爪で久遠に切りかかり、次々と小さな傷を作っていく。
「諦めたらどうだ?かなり分が悪いぞ?」
「諦めてたまるか!私と雪の長年の夢が目の前まで迫っているのだ!」
「見たところ彼女はそれを望んでいないようだ。そこにあるのは貴様の思い上がりだけだ」
「他人が知った風な口を利くな!」
目を血走らせ、興奮しながら円の言葉を否定する姿には雪への想いは無く、ただの妄執が残されているように見えた。
「久遠、もう止めて。もう、アナタにはついていけないわ」
「雪。お前までそんな……」
久遠は今、完全に孤立してしまっている。雪のためにやっていたはずなのに、その当人にまで拒絶されてしまったのだ。
「ふふふ……ハハハハハハ!」
「久遠?」
久遠が天井を仰ぎながら声をあげて笑う。髪は乱れ、目には血管が浮かび、その姿はまさに狂人のそれで、その姿にはもはやあの紳士的な主人の姿は見る影もない。
「ハハハハハハ、もういい。雪、君が望んでいようがいまいが関係ない!私は君を人間にするんだ!そして二人で愛し合おうじゃないか!」
「久遠ッ!いやッ!止めて!」
雪に突き飛ばされ、久遠は床に派手に転んだ。そのタイミングで、円は刹那の固定されている台に飛ぶと、彼を自由にしようとバンドに食いついた。
「円、早く!」
「分かっている。もう少し待て……」
円は器用にバンドの金具を口で噛んで動かしていく。あと少し、あともうちょっと……
「よし」
円によってバンドの金具が外され右手が自由になったおかげで、拘束していたバンドを外すことが出来る。刹那は急いで全てのバンドを外した。そして、雪の元へと駆け寄った。
「なんで……なんでだ雪?」
久遠は床にへたり込んだまま下を俯いている。どうやら戦意は喪失しているようだ。しかし、先程のこともある。油断はできない。
「久遠、分かって。私たちは間違っていたの」
雪が諭すように話しかけながら久遠に近づいて行く。久遠はピクリとも動かない。もう諦めたのだろうか。
「雪さん!」
刹那が気付いて叫んだ時には、久遠は雪に迫っていた。この狂人はまだあきらめていなかったのだ。
「雪ゥッ!」
今の久遠は何をするか分らない。早く引き離さなければ――
久遠が雪にたどり着く前に刹那たちが彼女の所へ駆けだそうとした。だが間に合わない。
雪に覆いかぶさるように久遠が飛びかかる。が、その動きが一瞬止まる。雪の背中越しで何が起こったのかよく見えない。
「雪……なぜ……」
久遠がズルズルとその場に崩れた。
「ごめんなさい……久遠……ごめんなさい」
ボロボロと涙を流しながら謝罪する雪の手はまるで赤い手袋のようになっていた。そして、その手には血がべっとりと付いたメスが握られている。
「ダメだ……」
久遠に近づいて呼吸を確認した円は首を横に振った。おそらく即死だろう。目を見開いたままの久遠の遺体の目を、円は閉じてやった。
「こうするしか……なかった。私たちは……罪を償わなくちゃ」
久遠の隣に膝をついてむせび泣く雪。刹那は声をかけようとしたが、その直前で思いとどまった。自分では彼女の傷を癒すことは出来ない。彼女と久遠の絆は深く、昨日今日出会った自分にはその間に割って入ることは出来ないのだ。その現実に刹那はこぶしを握り締めることしか出来なかった。
「刹那、行くぞ。今は一人にしてやった方が良い」
確かに今はその方が良さそうだ。雪をその場に残したまま、刹那たちは自分たちの部屋に戻るために暗い階段を上った。だが、何かが引っかかる。嫌な予感と言い換えても良い。
私たちは罪を償わなくちゃ。私たち――ッ!まさか!
「ヤバい!」
「どうした刹那?」
円に応えるよりも早く刹那は駈け出していた。彼女は「私たち」と言った。ならば、久遠を殺めておいて自分だけが生き延びようとするはずがない。
間に合ってくれ――
刹那は階段を転げ落ちるかというくらいの勢いで下った。
もし間に合わなかったら?
先ほどの久遠の姿が頭に浮かぶ。雪も同じようになっていたら?最悪の結末が頭の中に広がって行く。それだけは何としても避けなければいけない。
「雪さん!」
刹那は部屋に駆け込んだ。雪はッ?