第百二十一話 拒絶
「雪、よかった。そろそろ呼ぼうと思っていたんだ。さぁ、いつも通りここに寝て」
そう言って刹那の隣の診察台を指差す久遠に、雪は悲しそうに顔を横に振った。
「血をもらうためににここに来たんじゃないの。久遠、アナタを止めるために来たのよ」
「止める?なぜ?」
雪の言葉の意味が分からないといった表情を浮かべながら、久遠は彼女の方へと近づいて行く。
「久遠、こんなこともう止めましょう」
「何を言っているんだ雪。普通の人間になるのは何よりも君が望んでいたことじゃないか。普通の人間になって、いろいろな所へ行ってみたいと、外の世界を見てみたいと言ったじゃないか?」
「確かに私は普通の人間になることを望んだわ。だからあなたの行動を止められなかった。でも、こんなこと、間違っている。誰かの犠牲で人間になるなんて、私、嫌よ」
「雪……」
久遠がたじろぐ。どうやら心が揺れているようだ。
「久遠」
雪がうなだれる久遠を慰めるように彼の肩に手を置いた。
どうやら説得は成功したようだ。これでなんとか助かった。
「君は疲れているんだ。だからそんな変なことを……」
「久遠?」
何やら雲息が怪しい。
「雪さん、離れて!」
刹那が叫ぶ。だが、それと同時に彼女に久遠の手が伸びた!
「君が人間になるためにはこれは必要な犠牲なんだ!早くそこに着け!」
久遠は雪の腕を掴むと、押さえつけるように彼女を診察台に寝かせた。そして、彼女の両手を刹那のようにバンドで縛り付けてしまう。
「おい!乱暴は止めろ!」
「うるさい!他人が口を出すな!さぁ、雪。いつも通り大人しくするんだ」
「嫌よ!私はもう他の人の血液なんていらないわ!」
雪が暴れ回るために久遠はなかなか準備を出来ないでいる。しめた。今のうちに何とか脱出出来れば。
「くそ、きつく締めやがって。このっ」
先ほどと同じようにバンドを力の限り引っ張る。だが、強力に固定されてしまったのか、バンドはビクともしない。何か、脱出する方法はないか。
刹那が辺りを見回すと、円が目を覚ましかけているのが見えた。
円!やった!がんばってくれ!
声に出すわけにはいかないため、そのまま見守るしかできない。だが、円が立ち上がってくれさえすれば、勝機はある。その間、自分も精いっぱいの抵抗をするとしよう。
「大人しくしろ!」
「嫌!」
「なぜ私の気持ちが分からないんだ!雪、普通の人間になりさえすれば、もう怯えながら暮らす必要もないんだぞ?二人でいろいろな所に行ける。そうだ、海に行こう。君は海を見たがっていただろう?」
「人を殺してまで外に出たいとは思わない。久遠、私は今のままでも十分幸せよ。だから、もうこんなことは止めて」
久遠の説得を試みる雪だが、彼はなかなか首を縦に振らない。それどころか、何とかして彼女を診察台に乗せようと躍起になっている。円、早くしてくれ。このままじゃ、俺は干からびたミイラになっちまう。
「嫌よ!久遠!止めて!」
どうやら雪が久遠に抑えつけられてしまったようだ。まずい、準備が整ってしまった。円はまだ完全に目をさましていない。どうする?
「やぁ。待たせたね刹那君。では、君の血をいただくとしよう」
鋭い注射針が刹那の腕に迫る。
「止めろ!ちくしょう!」
体を揺らして必死に抵抗を試みる刹那だが、バンドに固定されていて動けるはずもなく、ただ揺れることしかできない。このままでは注射針が腕に刺されてしまう。円、まだなのか?
「失礼するよ」
注射針の先が再び刹那の左腕に触れそうな距離まで近づく。その時――
「燃えろ」
その言葉と共に久遠の注射針を持った方の肩に火が付く。その突然の事態に久遠は慌てふためいた。
「な、なんだこれはッ?」
「円!」
黒猫は不敵な笑みを浮かべながらこちらに近づいてくる。なんとか間に合ってくれたか。