第百二十話 目的
「くそ、よくも円を……」
もし、手足が自由ならコイツを思い切り殴ってやりたい。刹那はそれが叶わない自分の手足を見ながら歯ぎしりした。
「いやはや、誰が入ってきたのかと思えば、君の猫とは。それにしても、人間の言葉を喋るとは不思議な猫だな」
そう言いながら円を見下ろす男はこの館の主人、久遠だ。その手には円を殴った鉄の棒が握られている。
「さて、邪魔が入ったがこれでもう安心だ。続きをするとしよう」
久遠は円を端へ蹴飛ばすと、刹那の横に立ち、彼の脈を測り始めた。
「よしよし、薬が効いてきたな」
刹那の経過に満足したのか、久遠は頷くと壁際の棚を開け中をゴソゴソとやり始めた。どうやら、何かを探しているらしい。
刹那は雪と別れ星空を眺めていた時、後ろから殴られ気絶し、久遠にこの部屋に運ばれてきたのだった。
彼が目を覚ますと、目の前に久遠が立っており、自分はバンドで台に固定され身動きがとれなくなっていた。そして、訳の分からない薬を飲まされ、事情を説明する様に求めても応じてもらえず、今に至る。体に異常をきたしていないことから考えるにどうやら毒物の類を飲まされたわけではないようだが、いったいなんのつもりなのだ?
久遠の背中越しに何か鋭く光る物が見える。あれは……注射器か?
「おい、それをどうするつもりだ?」
久遠は答える気配はない。どうやら、まだ何かを探し続けているようだ。
「おい!聞いてんのかよ!」
「あ~、うるさい。そんなに大きな声を出さなくても聞こえているよ」
「じゃあ俺の質問に答えろ!」
久遠はめんどくさそうに振り返ると一言だけ刹那に告げた。
「今から君の体の血を全部抜かせてもらう」
「なんだって?」
「聞こえなかったか?君の体の血を一滴残らず抜くと言っているんだ。分かったら大人しくしていたまえ」
久遠はそう言うとまた探しものに戻ってしまった。
血を全部抜く?冗談じゃない、そんなことされたら死んでしまうじゃないか。
「くそっ、放しやがれ!」
必死に暴れるが手足は自由になる気配はない。
「このっくそっ」
思い切り引っ張ってもバンドが緩む気配すらない。だが止めるわけにはいかない。それは即ち死を意味するのだから。
「ぐぎぎぎ」
力の限り引っ張り続けた甲斐があって、少しだがバンドが緩んできた気がする。これなら或いは……
「おいおい、大人しくしておくように言っただろう?」
無情にも久遠は緩んだバンドを締め直してしまった。再び腕が全く動かなくなる。
「やっと見つかったよ」
注射器とチューブをテーブルの上に置き、右手の人差指で刹那の心臓の位置に触れると、笑みを浮かべた。
「健康そうな肉体だ。さぞ良質な血液がとれるだろう」
「俺の血をどうするつもりだ?」
「君が知る必要はない、と言いたい所だが、もう死ぬ身だ。冥土の土産に教えてあげよう。使うのさ、君の血を」
「一体何に?」
「雪のために君の血液が必要なんだ」
雪のため?確かに見た目は少し血色が悪い気がしなくもないが……。
「彼女がどういう人間か君は知っているか?」
「蝋人間だろ?」
「そうだ。彼女は普通の人間じゃない。そのせいで馬鹿な奴らに捕まって、その一生をめちゃくちゃにされそうになっていた。それを私が助けたんだ。あの美しい姿を他の下品な者から守るために」
そう熱弁する久遠の眼は焦点が合っておらず、常軌を逸したものがあった。そこに刹那を泊めてくれた時の優しい主人の姿は欠片も感じられない。
「だから、彼女を守るために、私は彼女を蝋人間から普通の人間にしようと思っている」
「は?どうやって?」
そんなのは初耳だ。蝋人間を人間に?本当にそんなことが可能なのか?
「蝋人間は蝋の原料になる脂肪酸を常人の何百倍も持っている。その原因は血中に過度に含まれる高級脂肪酸だ。普通の人間の血液が鉄分を多く含むのに対して、彼ら蝋人間は脂肪酸がその大半を占めている。つまり――」
何か難しいことを説明してくれているようだが、残念ながら刹那の頭ではそれを理解することはできそうにない。
「君の血液を抜いて、彼女にその血を流しこむ、一滴残らずな」
「そんなことして何になるんだよ」
「彼女の体に鉄分を供給し、蝋人間としての性質を薄め、人間に近づけるのさ」
「そんなことできるわけねぇだろ」
「それが出来るのさ。理論的にはね。その証拠に最近は随分人間に近づいてきたんだよ?」
久遠が下卑た笑いを浮かべる。最近は?つまり、こんなことをもう何度も続けているというのか?
「お前、前からこんなことやってるのか?」
「そうだよ?この村には君のように時たまに旅人が訪れることがあってね。好意ということで泊めているのさ。村の外の人間ならいなくなっても誰も気に留めないし、何か言われたら早々に出て行ったと言えばいい。彼らも雪の為にその身を捧げられるんだ。本望だろう?」
狂ってる。自分の行為に微塵の疑問も感じてない。惚れ込んだ女のためとはいえ、聯賦とはまた違ったタイプの狂人だ。
「お喋りはこのくらいにして血液をいただくとしようか」
「くそっ」
冗談じゃない。このまま殺されてたまるか。何か、脱出する術は?
刹那はあまり動かない首を必死に動かし、辺りを見回した。円はまだ気絶したまま。両手は動かせない。まさに万事休すか。
「円!起きてくれ!」
相棒に最後の希望を託し、声を張り上げる。円が起きてくれさえすればなんとかなるはずだ。
「円!」
「無駄なことは止めたまえ」
「うるせぇ!円!起きろ!」
「ふ~、やれやれ」
久遠はテーブルから瓶と布を取り出すと、瓶に入った液体を布に染み込ませた。何か、スース―した臭いが妙に鼻につく。
「それでは、そろそろ注射させてもらおうかな」
刹那の腕に液体のしみ込んだ布が押し当てられる。腕に液体の冷たさが広がっていく。
「や、止めろ!」
「大人しくしたまえ。血管を外すと何度も突き刺すことになるぞ?」
鋭い針がどんどん刹那に迫る。アレが刺されば成す術もなく血を抜かれ、最後は死体の出来上がりだ。くそ、もうダメなのか?
針が刹那の肌に触れた。固い針の先が力を込められ刹那の肌へと食い込もうとする。その時――
「止めて久遠」
怒号の混じる部屋の中に静かな声が響いた。
「雪……」
刹那がなんとか頭を起こしてみると、部屋の入口に立っていた雪は強い意志を持って久遠を見つめていた。