第百十八話 天使
「粉雪の『雪』に満月の『月』、それと簡単な方の『花』で雪月花。それが私の本当の名前」
雪が手のひらの上に指で文字を書きながらそう説明している間、刹那はその白く細い指に釘付けになっていた。
「あの、どうかしましたか?」
「だ、大丈夫っす!ほら、この通り!」
体を動かしながら無事をアピールする刹那。決して体のことを心配されたわけではないのだが、舞い上がっている彼にはそんなことは関係ない。
「ふふふ」
「あ」
笑ってくれた!
白い肌に白い歯が見えて、もうなんていうか全部真っ白で、いや、マジで、なんて綺麗なんだろう。天使?地上に舞い降りた天使?
刹那の貧相な言葉では言い表せないほどの感動を彼は今感じている。
「刹那さんは、面白い方なんですね」
面白い!面白いって言われた!やった!好感度アップ!
今の刹那なら例えどんな小さな賞賛であっても天にも昇るほど喜ぶだろう。
「そ、それで、雪、あ、雪月花さんは何をしてたんですか?」
「雪で良いですよ。久遠もそう呼びますし」
「じゃ、じゃあ、あの、俺には敬語使わなくていいです。俺の方が年下っぽいし」
「そう……かしら、それじゃあ、そうさせてもらうね」
それが皮切りになって、雪は出会った当初の頃よりも口数が多くなった。少しは距離が近くなったのかな。
彼女は毎晩ここで景色を眺めながら歌を歌っているらしい。明るいうちは人目が気になるらしく家に引きこもりきりだから静かになる夜だけは気分転換もかねて、こうやって外に出るのだという。
「ところで、さっきは何を歌ってたんですか?」
「アレは亡くなった恋人を偲んだ吟遊詩人の歌なの。病気の恋人の体に良い薬を買ってあげたかったけど貧乏な自分には買ってあげられなかった。病気の恋人を治してあげたいけど自分には歌を歌うことしかできなかった。病気の恋人の最後を看取ってあげたかったけど自分はそこに居られなかった。結局自分はなにもしてあげることができなかった。っていう歌よ」
なるほど、どおりで優しげだった中に所々もの悲しげな雰囲気があったわけだ。
「自分の力不足を嘆く歌なんだけど、私は恋人への愛が詰まっていてとても好きな歌なの」
「そうなんですか。でも、俺はあんまり共感出来ないな」
「どうして?」
「何かしてあげたいと思っていたなら、まず行動するべきだったんだ。その詩人は出来なかったんじゃなく、やらなかっただけですよ。やる前から無理だと決めつけていたんだ。やる前に諦めた時点でその詩人は恋人に何もしてやれなかったんです」
刹那の言葉に雪が哀しそうに目を伏せる。予想外の反応に刹那はどうして良いか分らず慌ててしまう。何かまずいことでも言ってしまったのだろうか?
「あ、あの?」
「ごめんなさい。ちょっと思う所があって……アナタの言う通りね。何も行動しなかったらダメよね」
雪はまるで自分に言い聞かせているかのように頷いている。
「ありがとう刹那くん。アナタのおかげで勇気が持てそうだわ」
「ま、まあ、俺もいろいろ経験してますから」
ぎこちなく胸を張る刹那を見て、雪はふふ、と笑った。あぁ、普通にしていても美人だが、笑うとより一層美しい。
それから刹那と雪はお互いの話をした。雪は生まれてすぐに悪い人間に捕まり、金持ちに売られてそこで奴隷のような生活を強いられていたらしい。
だが、五年前に金持ちの家から脱走し、その際に久遠氏に助けられ、それからずっと彼と共にいる。雪月花と言う名前も、その時に久遠からもらったのだという。
自分を拾って匿ってくれた久遠にとても感謝しており、雪月花と言う名前もとても気に入っているらしいというのは彼女の喋り方から容易に想像できた。そして、誠に残念ながら、その感謝はそれ以上の感情になっているであろうことは明らかだ。
刹那は自分が記憶喪失だったことと円との出会い、そして今まで体験してきたことを一つ一つ語った。雪はこの屋敷に来てからはずっと村の外へと出たことはないらしく、刹那が今まで体験してきたことをどれも興味深そうに一心に聞いていた。
「刹那くんは私よりも若いのにいろいろなことを体験してるのね」
「いや~、記憶がなくて帰る場所が分かんないからほっつき歩いてるだけですよ」
「うらやましい。私もこんな体じゃなかったらいろいろな所を旅してみたかった。そうしたら、もっといろいろなものを見て、いろいろなことを感じることが出来るのにね」
蝋人間であることが彼女の人生を狂わせている。少し自嘲気味に笑った顔が寂しげだった。
「でも、居間に飾ってあった雪さんが描いたあの小鳥の絵、すっごく綺麗でしたよ。この村の中だけしか出られないのかもしれないけど、あれには雪さんが感じたことがギュッと詰まってる気がしました」
「本当?いろいろな所を回ってる刹那くんにそう言ってもらえると嬉しい。あの絵には、私が自由に動けない代わりに、自由に飛び回って欲しいと思いながら描いたの」
なるほど、だからあんなに躍動感の溢れる絵だったわけだ。あの絵は雪の願いを形にしたものだったのだ。
「ふう。結構話しちゃったね。そろそろ戻るわ。刹那くんとたくさんお話できて楽しかった。付き合ってくれてありがとうね」
「あ、いえ、俺も楽しかったっすから」
「それじゃあ、あまり夜更かししないようにね」
「大丈夫ですよ。俺、若いですから!」
「ふふふ、わかったわ。それじゃあ、おやすみ」
「はい」
雪が屋敷に戻ってもしばらく刹那は星空を眺めていた。まるで吸い込まれそうな星空だ。この空を眺めていると、失恋の痛みも消えていく気がする。
刹那の意識はほとんど空に向いていたため、自分の背後に迫る影への反応が遅れてしまったのも無理はないだろう。