第百十七話 名前
シャワーを浴び終えた刹那が戻ってきた時には円は熟睡していたため、刹那も大人しく眠ることにした。
刹那が目を覚ましたのは、それから三時間ほど経った時だった。なんとなく目が覚めてしまったのだ。再び眠りの世界へ入ろうとしたのだが、どうも寝付けない。
適当に外でもブラつくか――
少し体を動かせば眠くなるかもしれない。彼は少し外を散歩してみることにした。
起き上がりドアの方へと向かう。一歩踏み出すごとに空気の冷たさが肌に伝わる。これでは眠くなるどころか、ドアに辿り着く前に完全に目が覚めてしまう。
「ふぅ……」
案の定、完全に目が覚めてしまった……。
刹那はドアを静かに開けると、外に出て行った。
やっぱりこの時間は静かだな――
そんなことを考えながら刹那は廊下を歩く。夕食の時間帯には村の外れのここにまで村の人々の騒がしい声が聞こえてきていた。しかし、真夜中の今となってはその騒がしい人々も寝静まっている。今、この時間の中には自分しかいない。騒がしい音も、明る過ぎる光も無く、ただの暗闇と月明かりだけ。
「ん?」
今、何かが聞こえたような?
刹那はその音が聞こえた方へと足を向けた。音は開いた窓から聞こえてくる。どうやら、外から入ってきているようだが。
玄関の方へと回り込み外に出てみる。
「すげぇ」
そこには、静寂の闇の中に一つだけ浮かぶ白い姿があった。月に照らされたその髪は白銀に輝き、幻想的な雰囲気を醸し出している。白い肌は闇の中に煌々と輝き、まるでこの世のものではないかのようだ。そして、その体から発せられている歌声は静かで、優しく、この静寂とよく調和している。だが、少し物悲しく感じるのは何故だろう。
「――ッ!」
何者かが近づいてくる気配を感じ取ったのか、雪がこちらを振り向いた。刹那と雪の視線が交差する。
「あ、あの、すいません、盗み聞きするつもりじゃなかったんで――」
刹那が言い終わるより先に雪が走り去ろうとした。
「待って!」
逃げようとした雪を刹那が止めた。振り返ったその瞳には怯えの色が見える。この様子、円の話を聞いて合点がいった。彼女は他人を恐れている。おそらく、彼女が蝋人間として生きてきたことで感じた恐怖がそうさせているのだろう。
「あの……」
まただ。あの書斎での出来事が脳裏をよぎる。また話せなくなってしまった。
だが、その沈黙を破ったのは意外にも雪の方だった。
「ごめんなさい」
「え?」
訳が分からない。なぜ謝るのだろう?
刹那が理由を聞こうと彼女を見ると、彼女はサッと視線を下に逸らした。そして、消え入りそうな声が聞こえてくる。
「うるさかったですよね」
歌のことだろう。とんでもない、とても素晴らしい歌声でしたよ……とスラスラと言えたらどんなに楽か。
「そんなことないですよ」
これだけで精いっぱいだ。
――くそっ、俺のヘタレ、もっと気の利いた言葉は出てこないのか。
「……」
「……」
再び沈黙が二人を包む。何か、何か言わなければ――
「あの、雪さん……」
彼女の肩がビクンッと震える。まずい、怯えさせてしまった。
「雪さん、あの、雪って、良い名前ですよね?純白みたいなイメージで、あの、雪さんってホント、雪みたいに肌が真っ白で綺麗だし、名前がピッタリ合ってる感じで」
あああああ、俺は何を言ってるんだ?思いついたことを片っ端から口にしてるから、自分でもよく分からなくなってきた。
しかし、その刹那の言葉が琴線に触れたのか、彼女の顔が一瞬和らいだ気がした。
「雪……」
「え?」
小さくて聞き取れなかった。今なんと?
「雪月花、私の、ホントの名前」
その言葉とともに現れた彼女の微笑みはとても柔らかく、刹那の心の中に深く染み渡ったのだった。