第百十四話 持つ者と持たざる者
「あ~、生き返る」
出された紅茶を一杯口に含むと、思わずその言葉が漏れていた。疲れ果てた体に温かい紅茶が沁み渡る。それと共に体の中から疲労が溶けていくようだ。
「よほどお疲れだったようですね」
目の前でこれでもかというくらい深いため息をついた刹那を見て久遠氏が笑う。温かみのある、どこか安心させられる笑顔だ。
「いや~、ちょっと道に迷ったせいで一週間近く野宿するはめになっちゃって」
円の言葉を信じて道を曲がったら全く人気が無い方に出てしまったのだ。あそこで逆に行っていればこんな思いをすることもなかったか。
思い出したら無性に腹の立ってきた刹那は抗議の意味も含めてミルクを舐めている円の横腹を軽く蹴り飛ばした。良い調子でミルクを飲んでいた円は「ボフッ」と吹き込むと、顔いっぱいにミルクを着けてまるで白猫のようになっている。
「なぁ~」
久遠氏の手前、喋ることの出来ない円は威嚇するような声を上げる。だが、声だけなら別に何ともない。一週間野宿させられたことを考えれば、牛乳が顔に着いた程度じゃ足りないくらいだ。なんなら尻尾も踏んづけてやろうか。
「それは大変でしたね。部屋は、客室が空いていますから、そこを使って疲れを取って下さい」
「本当にありがとうございます」
見ず知らずの自分にここまでしてくれるとは、本当にありがたい。
「いえいえ、最近は滅多に人も訪ねてこないもので退屈していたところなんです。お客さんは大歓迎ですよ」
「そう言ってもらえると助かります。あ、そう言えば……」
先ほどの女性は誰だったのか訊いておこう。
「あの、先ほど銀髪の女性がいたんですが、奥様ですか?」
「え?あぁ、雪ですか。彼女は妻ではありません。ある事情があって私の所で居候しているんですよ」
「そうだったんですか」
ある事情というのが気になるが、あまり詮索しないのが礼儀というものだろう。
「彼女、何か失礼なことでもしましたか?」
「あ、いえ、そういうんじゃないんです。挨拶しようとしたんですけど、すぐどこかに行っちゃったんで」
「そうですか。彼女は人見知りな所がありまして、お客様には挨拶をするようにいつも言っているんですが、申し訳ありません」
久遠氏は丁寧に頭を下げる。本当に何とも思っていなかった刹那はそこまで丁寧に頭を下げられてしまい逆に申し訳なくなってしまった。何か、話題を変えられるものは。
「そ、そう言えば、この鳥の絵、すごいですね。まるで今にも動きだしそう」
「それですか。それは雪が描いたものなんですよ。私も気に入っていましてね。ここに飾っているんです」
「雪さんがですか?すごいですね、絵の才能があるんだ」
これだけの絵が描けるとは、素直に感心してしまう。
「はは、それを聞いたら彼女も喜ぶと思います。少しふさぎ込む癖があるんですが、話せば優しい性格ですから、よろしければまた話してやってください」
「はい。次はこの絵の話聞かせてもらうことにします」
久遠氏との話を弾ませた後、刹那は今日泊まる客室へ案内された。大人二人が泊まっても余裕がありそうな巨大な客室には大きなベッドがあり、天井まで付いていた。枕もとには天使を象った真鍮製の置時計が置いてある。また、備え付けのテーブルや椅子も品があり、部屋全体の家具がよく部屋にマッチしていた。これは普通の宿の何倍も良い部屋だ。本当にタダで泊めてもらっても良いのだろうか。
「ふぅ~」
ベッドに仰向けに寝転んだ刹那は深いため息をついた。やっと柔らかいベッドで寝られる。これ以上の喜びはない。
ベッドの天井には夜空の模様が描かれている。こんな細かい所まで装飾するとは、なかなかの贅沢品だ。だが、この星空を眺めていると不思議と落ち着いてくる。だんだんと眠りの世界に落ちて……
「いてっ」
意識が落ちかけていた刹那の顔に鋭い痛みが走る。この痛みには覚えがある。目を開ければ星空に溶け込むように黒い影。こんなことをするのはアイツしかいない。
「円~、何するんだよ」
「ふん、先ほどの牛乳の礼だ」
あの白猫事件のことだろう。いちいち細かいことを根に持つ猫である。
「人が気持ちよく寝ようと思ってたのに」
「寝ればいい。もう報復はしたからな。あとは手は出さん」
「お前のおかげで目が冴えちまったよ」
円にブチブチと文句を言いながら、刹那は天井を眺めながらあることを考えていた。
「雪さんか……」
透き通るような銀髪とそれに包まれた白い肌。触った途端に壊れてしまいそうなそのか細い手はまるで彫刻のようだった。顔の中心にある二つの目は、さしずめ宝石と言ったところだろうか。声は聞けなかったがきっととても澄んだ声に違いない。
「惚れたな?」
「うぉ!」
いきなり声をかけられて刹那が飛び起きる。その声の先にいた円はニヤニヤ笑いながらこちらを見つめていた。
「な、何だよ円、突然」
「なに、人生の先輩として現実を教えてやろうと思ってな」
「は?」
「忠告しておくぞ。止めておけ。お前に勝ち目はない」
「どういう意味だよ?」
「相手は落ち着きがあり、品があって資産もある、その上なかなかの見た目の男。片や――」
円がベッドに飛び乗り刹那の顔の前に右手を出した。
「落ち着きは無いし品も無い、おまけに記憶も無いの三無い男。勝負は火を見るより明らかだ」
なぜそこまで言われなければならないのか。刹那は無性に腹が立ってきた。
「そんなのやってみなきゃ分かんないだろ!」
「ふっ、若いな」
円が達観した笑みを浮かべる。なんなんだこいつは?
「ま、やるだけやってみろ。人は失敗からの方が多くを学ぶことができる」
「余計なお世話だっつ~の」
刹那が立ち上がりドアの方へと歩いていく。
「どこに行くんだ?」
「円先生の恋愛相談はタメにならなそうなんでね。久遠さんが屋敷の中は自由に歩き回って良いって言ってたから、夕食までまだ時間もあるみたいだし、ちょっと探検してくる」
「あの女性に会いたいだけじゃないのか?」
「な、なにを言ってるんだね円くん?」
平静を装うとした刹那だったが無駄だったようだ。円が呆れたような目で見据えてくる。
「まあいいがな。あれだけ連日歩いてまだ歩くとは、恋は何にも勝る原動力だな」
円がまたあのニタニタ顔を浮かべる。このままここにいてはおもちゃにされてしまう。さっさと退散しよう。
「頑張れよ、若人」
「うるせぇ」
刹那は振り返らずに部屋を出ていった。後ろ手にドアを閉めるとき、黒猫の笑い声が聞こえたので思わず乱暴に閉めてしまった。




