第十話 湯上りと決闘と
「だから、湯上りは牛乳だろ!」
「何を言うか!入浴で火照った体には紅茶が一番なのだ!」
湯から上った刹那と円は湯あがりに合う飲み物はどちらかという本当にしょうもないことで言い争いをしていた。
「風呂上がりに紅茶なんて甘ったるいものが飲めるか!入浴後は爽やかな喉越しの牛乳と大昔から決まってんだ!」
「記憶喪失のくせに大昔からとは笑わせる!甘いものは疲れをとるんだぞ!」
お互いまったく譲る気のない二人を周りは不思議そうな目で見ている。傍から見れば猫と話す奇妙な青年と、人語を操る摩訶不思議な猫。それを、番頭は誰かの変わったペットだと判断し、客は温泉で飼っている変わったペットだと思っている。これなら最初から堂々と円も入れば良かったのではないだろうか……。
「ちょっと待ったお二人さん!」
お互い一歩も譲らない刹那と円の間に一人の少女が割って入った。茶髪の髪を後ろで結って風呂上がりなのか湯気を上気させて浴衣を羽織っている。
「「なんだッ?」」
二人の声が見事に重なる。こういう時の息は妙にピッタリだ。
「二人の話を聞いてると、さっきから情けなくってね。やれ牛乳だの、紅茶だの、小さいことで言い争いしちゃって……」
髪と同じくらい茶色の瞳で二人を交互に見ると、少女は両肩を落として大げさにため息をついた。
あぁ、この子が丸く収めてくれそうだ――
その場にいた誰もが、少女が二人の仲裁に入りその場を収めると考えただろう。これでこの摩訶不思議な騒ぎは収まるのだろう、と。
しかし――
「風呂上がりは水に決まってるじゃないか!」
少女の目には一点の曇りもなかった。
「ただの水なんて論外だ!」
「あんな味も素っ気もない物を飲んで喜ぶのは馬だけだ!」
「あんだとぉッ?」
他の客たちの期待は見事に砕け散り、結局、事態は三つ巴の泥沼へと向かって行ったのだった。まさか彼女が火に油を注ぐとは、誰が想像できたであろう?
「お客様、よろしいでしょうか?」
「「「なんだよッ?」」」
声を見事にハモらせた刹那たちがそちらへと顔を向けると、そこには巨体にがっしりとしたガタイの男が立っていた。服装からしてこの風呂屋の従業員だろう。両腕は太ももと同じぐらいの太さがあり、まるで丸太のようだ。おそらく力仕事を任されているのだろう。
「他のお客様のご迷惑にもなりますので、これ以上は……」
その男は禿げあがった頭を燦然と輝かせながら、刹那たち一人ひとりの顔を覗き込んだ。その表情には「これ以上騒げば容赦しない」という無言の圧力が込められていた。
「「「……はい」」」
結局、その場はそれで納まり、刹那と円は湯屋を後にして街を見て回ることにしたのだった。
「まったく、刹那のせいで酷い目に遭ってしまった」
「こっちの台詞だよ。それにしてもさっきのおっさんすごい迫力だったな。あれは軽く二、三人殺してる顔だぜ?」
刹那は先ほどの禿の従業員の顔を思い出して大げさに肩を抱えて震えて見せた。
「まあ、ここにはいろいろな人間が来るからな。ああいった人員も必要なのだろう」
「ふ~ん、そんなもんか。あ、円、アレ見てみようぜ!」
「おい刹那、走るな!」
円は同じ過ちを繰り返すまいと刹那のズボンの裾を噛んで引っ張った。そのせいで勢いを失った刹那は、少し進んだだけで前につんのめる形で止まる羽目になってしまった。
カツン――
刹那の腰に挿した神威がわずかに揺れた。
見ると、鞘に収まった切っ先が反対側から歩いてきた少女の肩から掛けられた荷物にぶつかっている。
「あ、悪い悪い」
刹那は軽く頭を下げるが、少女は驚愕したように眼を見開いて彼を見つめている。
よく見れば、その少女は先ほど刹那たちと風呂上がりの飲み物について議論した少女だった。先ほどの浴衣から着替え、今は短いスカートに肩の出た布のシャツを着ている。
「それじゃあ」
「ちょっと待ちな」
刹那が立ち去ろうとすると、その少女が後ろから声をかけて彼を呼び止めた。
すでに謝罪はしたはずだが、何だというのだろうか。
「武器の鞘当てをしといて逃げようってのかい?」
その眼は先ほどとは違い、殺気立ち、異様な雰囲気を醸し出している。
「え?鞘当てって……あぁ、さっきのか。悪かったって」
刹那はもう一度謝りその場を去ろうとしたのだが、今度は少女に行く手を遮られてしまった。
「なんだよ?謝っただろ?」
「刹那、事態はそう簡単なものではないぞ」
見ると、円が真剣な顔で少女を見ていた。その眼は鋭く、かなり緊張しているようだ。
「どういうことだよ?」
「あの茶髪に茶色い瞳、さっき湯屋で見た時に気付くべきだった。彼女は堅要の人間だ」
「堅要?」
「あぁ、大和にある都市の一つだ。あそこの人間は血の気が多い上に、皆何かしらの格闘技を習得している。堅要では武器の鞘当ては決闘の申し出を意味するんだ」
「マジかよッ?でも、ここはその堅要ってとこじゃねぇだろ?」
「そんな言い訳は彼女には通用しないだろう」
円の言う通り、彼女は明らかに敵意のこもった目でこちらを睨みつけている。湯山はいろいろな人間が集まってくる。その中に彼女の様な人間がいても不思議ではないのだ。
「どうするんだよ、決闘するしかないのか?」
「待て、俺が話をつけてみる」
円はそう言うと一歩前に出た。
「お譲さん、少し話を聞いてもらいたい」
「猫が人間様の話に入ってくるんじゃないよ。すっ込んでな!」
取り付く島も無かった。
「刹那、構わん。思い切りブチのめせ!」
「ちょっ!円ッ?」
「この誇り高き猫又である俺にすっ込んでいろだと?あの女に世間の厳しさを教えてやれ」
「俺も記憶と一緒に世間の厳しさを忘れてるんだけど……」
頼みの綱である円も乗せられてしまい、刹那はしぶしぶ彼女と決闘することになってしまったのだった。




