第一話 出会いは焼き加減とともに
「中までしっかり火が通って死ぬのと、生の部分が残った状態で死ぬの、どちらか好きな方を選べ」
「は?」
青年は思わず己の耳を疑った。薄暗い森の中、あたりには自分以外の人間は皆無。そして、目の前には黒猫が一匹。
――今、目の前の黒猫が喋らなかったか?いや、そんなはずがない、きっと誰かがどこかで喋ったんだ。腹話術というやつだろうか。
青年が辺りを見回して声を当てている人間を探そうとしていると、またもや黒猫が口を開いた。
「何をしている?お前に話しかけているんだ。俺としてはしっかりと火は通しておきたいがな。中途半端に生き残られて動き回られても面倒だ」
まわりには自分以外の人の気配は感じられない。どうやら、本当にこの猫が話しかけてきているらしい。
ということは、命を狙われているのは自分?
なんということだ、初対面の相手――しかも猫――に命を狙われるとは……。
いや、考え方を変えれば、これはなかなか出来る体験ではない。もしや今、すごく貴重な体験をしているのではないだろうか?
「――って違う!どっちも選べねぇよ!どっちにしろ、俺、死んじゃうじゃん?」
それよりもいきなり命を狙われる理不尽さに抗議すべきなのだが、今の青年にはそこまで頭は回らない。そもそも、猫がどうやって人を燃やすというのだろうか?
「俺の知った事か。俺のために死ねるんだ。感謝するんだな」
何という横暴だろう。自分のために死ねとは、人間であってもなかなか言えることではない。猫の世界ではこれが常識なのか?
「生き残るって選択肢は?」
「ない」
即答である。
「はぁ~」
青年は身に降りかかった災難に思わずため息をついた。だが、彼にはその権利があるはずだ。近頃の彼は本当にツイてない。
この青年の名は刹那。黒髪に黒い瞳、顔の彫りはしっかりとしており、見た目は良い部類には入るだろう。程よい肉付きの肌は血色も良く、一見して健康そうに見える。しかし、彼の体はある問題を抱えていた。
彼は自分のことが何も思い出せないのだ。
記憶喪失――何らかの要因によって記憶に障害が出てしまうこと。特定の期間の記憶がすっぽり抜けてしまう場合と、自分に関する記憶がほとんどなくなってしまう場合とがある。彼の場合、生まれてから今までの自分に関する記憶が全て無くなってしまった。
刹那が目覚めたのは三日前、気づいたら見知らぬ草原に倒れていて、自分の名前は何なのか、どこで生まれたのか、家族は何人いたのか、それら全てを思い出せなくなってしまっていた。
手に持っていたのは食料がいくらか入った袋と、「刹那」と書かれた紙切れが一枚。他に何の手がかりも無かった彼は、その紙に書かれた文字を自分の名前としたのだった。
その後、あまり深く考えても仕方がないと、彼は――考えなしに――袋の中身で腹を満たし、これまた考えるよりまず行動だ、と宛ても無く歩きだしたのだった。
そして今、彼は歩きだしてから三日も経たないうちに身の危険に晒されてしまっていた。後先考えずに食べた食料は底を突き、空腹のあまり食料にしようか思案していた通りすがりの猫に逆に殺されそうになっている。
人に話せば笑い話と受け取ってもらえるかもしれないが、当人にとっては深刻な問題である。
「早くしろ。お前には考える余地はない、強火で一気に死ぬか、中火でじっくり死ぬか、どっちだ?」
「待てよ、そもそもなんで俺が殺されなきゃいけないんだよ?お前になんかしたのか?」
もしかしたら記憶を無くす前に何か酷いことをしているのかもしれない。それこそ、殺されても仕方がないような。
「いや、俺と貴様は初対面だ」
「初対面で人を殺そうとするんじゃねぇよッ!」
どういう教育を受けてきたんだ、この猫は?
「そんなもの俺の勝手だ。お前は大人しく俺に焼き殺されて心臓を提供しろ」
「心臓を提供?なんで?」
ますます意味が分からない。なぜ自分の心臓なんてものを欲しがるのだ?
「死に逝く貴様には関係のないことだ、と言いたい所だが、冥土の土産に教えてやる。貴様の心臓を食って、俺は上位の猫又になるんだ」
「上位の……猫又?」
猫又と言えば刹那にも記憶にある。確か、何年も生きている猫の化け物だったと思うが。そんなものが実在したのか。
「上位ってなんだよ?」
「そこまで説明してやる義理はない。さぁ、早く俺に燃やされて心臓をよこせ」
「まだ死にたくねぇから却下だよ!」
何か目的があるのかと言われれば特にない。だが、精一杯生きるのは生きている者の義務だ!……と思う。少なくとも、自分はこんな所で見ず知らずの猫に殺されるために生まれてきたわけではないはずだ。
「そうか、ならばせめてもの情けだ、一瞬であの世に送ってやる」
そう言うと、黒猫の黒い瞳は見る見る赤く染まっていった。白眼の部分が真紅になる。黒猫はその燃えるような眼差しを刹那に向け、今にも向かってきそうな気迫を見せた。
「ふううううぅぅぅぅぅ……」
黒猫の毛が逆立ち、それに合わせて空気がピリピリと音を立てた。
刹那も思わず身構えてしまうほど、黒猫の発した空気は張り詰めていた。そして、その緊張が極限まで達しようとした、その時――
グ~~~~~
「ん?」
何かが鳴る音が聞こえた。何事かと刹那が音源を確かめようとすると――
「あれ?」
黒猫がふらつき始め、そして、その場に倒れこんでしまったではないか。
「なんなんだ、こいつ?」
しばらく眺めていたが黒猫はピクリとも動かない。
「死んだのか~?」
恐る恐る近づき、落ちていた木の枝で軽く突いてみる。胸が多少上下している所を見ると、まだ息はあるらしい。どうやら気を失っているようだ。
「……焼いたら食えるかな?」
刹那は目の前で倒れてしまった奇妙な恐喝犯を見下ろしてそう呟いたのだった。